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第5話 彼女の食べ方と、俺の料理

鈴音が毎日来るようになって、一週間が経った。


 夕方の六時十五分。誤差は五分以内。彼女はうちのチャイムを正確に押し、俺が開けると無言で靴を脱ぎ、ちゃぶ台の定位置——正面の左側——に座る。


 いつの間にか定位置ができていた。初日は正座だったが、四日目くらいから正座が崩れて横座りになった。それすら無自覚なんだろう。緊張が日に日に解けていくのが、座り方でわかる。


 メニューは日替わりだ。焼き魚。麻婆豆腐。鶏の照り焼き。筑前煮。実家の創作料理のような凝ったものは作らない。家庭料理だ。ただし——下処理と出汁だけは、体が覚えた通りにやる。


 変えたのは一つ。副菜の品数を減らした。


 一人暮らしなら主菜と汁物だけでいい。副菜二品はやりすぎだ。鈴音にはワンプレートに盛るくらいでちょうどいい。


 ——と、自分に言い聞かせている。本当は三品でも四品でも作れるが、「やりすぎ」が目立つと面倒くさいことになる。誰に対しての面倒のことかは、考えないことにした。


 ◇


 その日は、豚肉の味噌漬け焼きにした。


 ロース肉を味噌、みりん、酒で一晩漬け込んでおいたやつだ。味噌を軽く拭き取ってから焼かないと焦げる。中火でじっくり。味噌の香ばしい匂いが台所に充満する。


 壁が薄い。この匂いは間違いなく隣に届いている。


 案の定、今日は六時十分にチャイムが鳴った。五分早い。


 ドアを開けると、鈴音が立っていた。無表情。ただし鼻がわずかに動いている。匂いを確認しているらしい。


「……味噌」


 挨拶より先に、それが出た。


「味噌漬け。豚ロース。焼いてるとこ」


「……」


 小さく頷いて入ってくる。靴を脱ぎ、定位置へ。今日は言葉が少ないが——足取りが、心なしか速い。


 ◇


 食卓に並べた。味噌漬け焼き、大根おろし添え。きゅうりとわかめの酢の物。なめこの味噌汁。白飯はいつも通り三合炊いてある。もう誤魔化さない。


 彼女はこの一週間で、微妙に変化していた。


 最初の三日間は、ただ食べていた。無表情のまま、驚異的な速度で平らげていた。


 四日目あたりから、食べる前に——皿を、眺めるようになった。


 盛り付けを確認しているのだと思った。だが違った。匂いを嗅いでいる。目を閉じて、わずかに鼻先を皿に近づけて、立ち上る湯気を吸い込んでいる。


 今日もそうだった。味噌漬け焼きの皿に顔を寄せ、二秒ほど目を閉じた。


 それから箸を取った。


 一口目。


 眉が——動いた。


 いや、動いたのは眉ではない。眉の下の、まぶたのぎりぎり上あたりの筋肉が、一瞬だけ痙攣するように震えた。


 これは新しい反応だった。


「……どうした?」


「……味噌の裏に、もう一層あります」


「は?」


「……味噌で漬けているのに、味噌の前に何かの下味がついている。……昆布?」


 当たりだ。


 漬ける前に肉を昆布締めにしておいた。昆布のグルタミン酸が肉のイノシン酸と結合して旨味が倍増する。手間だが、それだけの価値はある。


 だが、味噌の味がこれだけ濃い漬け焼きで、その下の昆布の風味を——一口で抜き出すのか。


「……鈴音って、プロの料理人?」


「……違います。私は、作れません」


「でも、この舌は——」


「……ずっと、食べさせられてきた、だけです」


 「食べさせられてきた」。


 食べてきた、ではない。食べさせられてきた。能動ではなく、受動。そこに含まれたニュアンスが引っかかった。だが彼女はそれ以上言わず、箸を動かし始めた。


 追及しなかった。踏み込んでいい場所ではない。


 ◇


 食事が終わった。いつも通り洗い物をしながら、ふと思った。


 鈴音の食べ方が変わってきている。


 初日は——完食するだけで精一杯だった。空腹に支配されていて、味を確認する余裕すらなかったのだろう。


 二日目は、味を確認しながら食べていた。出汁の構成を言い当てた。


 三日目は、リクエストをした。


 四日目は、食べる前に匂いを嗅ぐようになった。


 そして今日。味の「層」を読むようになった。


 まるで——俺の料理と、彼女の舌が、日を追うごとにチューニングを合わせていくようだった。


 俺が出す味を、彼女が受け取る。受け取った上で、もっと奥を見ようとする。それに応えるように、俺も無意識に仕込みの手数を増やしている。


 味噌漬けに昆布締めなんて、一人暮らしの夕飯でやることじゃない。普通なら。


 だが——やってしまう。


 彼女が一口目で目を閉じる、あの瞬間を見るために。


 ◇


 帰り際。


「……みなとさん」


「ん」


「……今日の、味噌漬け」


「うん」


「……私が今まで食べた味噌漬けの中で、いちばん」


 言葉が途切れた。彼女は自分で言いかけたことに驚いたような顔を——いや、顔は変わっていない。けれど、口を閉じるタイミングがいつもより強かった。唇を噛むように。


「……いちばん、でした」


 それだけ言って、ドアを閉めた。


 いちばん、何だったんだ。


 美味しかった、なのか。好きだった、なのか。最後の単語を飲み込んだ彼女の口元を思い出しながら、洗い物の続きをする。


 蛇口の水が、シンクを叩く。


 明日は何を作ろう。あの舌が、次にどこまで踏み込んでくるのか。試したくなっている自分に気づいて、少し笑った。


 ——料亭を逃げ出してきた人間が、たかだか隣の腹ペコ一人のために本気になり始めている。


 シンクの水を止めた。台所の灯りを消す。

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