第4話 ハンバーグと、初めての名前
約束のハンバーグを作る日が来た。
牛と豚の合挽き肉は六対四。スーパーで挽いてもらうのがベストだが、パックでも悪くない。大事なのはここからの仕込みだ。
玉ねぎをみじん切りにする。包丁の刃先が、まな板を小気味よく叩く。繊維の方向に縦に割ってから横に刻む。指先は切れ目に近い位置に置いて、リズムを一定に保つ。
バターで玉ねぎを飴色になるまで炒める。焦がさない。かき混ぜすぎない。木べらで端を返すように動かして、玉ねぎの水分をゆっくり飛ばす。甘みが凝縮されるまで、二十分近くかかる。
その間に、パン粉を牛乳に浸しておく。これでふっくらとした食感になる。卵を割り入れ、塩と胡椒。ナツメグは少しだけ。多すぎると鼻につく。
飴色の玉ねぎが冷めてから、全てをボウルに入れる。手がべたつくが、ここからが勝負だ。捏ね方にコツがある。力を込めて練り上げるのではない。空気を含ませるように手首を返しながら、粘りが出るまで。生地と対話するような感覚で。
——親父ならここで「対話なんてのは手が勝手にやるもんだ。口じゃなくて手ぇ動かせ!」と怒鳴るんだろうが。
成形は右手と左手で交互にキャッチボール。空気を抜くためだが、バシバシ叩くのは乱暴すぎる。投げるように軽くやるのがいい。中央を少し凹ませて、焼いたときの膨張を防ぐ。
フライパンを強火にかけ、肉を置く——ジュ、という激しい音。ここで触らない。焼き色がつくまで動かさない。三分。裏返して弱火。蓋をして蒸し焼き。八分。
蓋を開けると、肉汁の膜が輝いている。竹串を刺して透明な汁が出れば完成。
ソースは簡単に。フライパンに残った肉汁にケチャップと中濃ソース、赤ワインを少し。バターを加えて混ぜる。
付け合わせはミニトマトとブロッコリー。ブロッコリーは茎まで使う。皮を剥けば、茎のほうが甘い。
◇
十八時十五分。今日は彼女が来るのが早かった。
カサ、というドアへの合図の代わりに——チャイムが鳴った。
初めてだ。今まで一度もチャイムを押さなかったのに。
ドアを開ける。氷室鈴音。無表情。手にはいつものタッパー(新品、シール付き)——ではなく、今日はスーパーの袋を持っていた。
「……サラダ油が切れかけて、いると思ったので」
袋の中身を覗くと、サラダ油。新品の一リットルボトル。
確かに、うちのサラダ油は残り少なかった。いつの間に見ていたんだ。料理中に横に立って洗い物を手伝っている間に、そういうところまで見ていたのか。
「……ありがとう」
「……ハンバーグの匂いが、します」
鼻先が、かすかに動いた。犬か。
「うん。リクエスト通り」
「……」
口元は動かないが、目が奥で——光った。ガラス球に火が灯ったような、ほんの一瞬の瞬き。
◇
食卓に並べた。ハンバーグ、ソースたっぷり。付け合わせのブロッコリーとミニトマト。白飯。大根と油揚げの味噌汁。
彼女は箸ではなく、フォークとナイフを持った。
……いや、箸で食べてもいいんだぞ?
だが彼女のナイフさばきは、箸よりもさらに見事だった。左手のフォークで肉を固定し、右手のナイフを音もなく滑らせる。断面が一切崩れない。完璧なカット。
——この所作は、マナーを『守っている』んじゃない。銀食器の重さが身体の一部になっている人間のものだ。
それを確信しながら、何も聞かなかった。
切り分けた一口を口に運ぶ。咀嚼する。飲み込む。
そしてまた一口。
三口目で、彼女の瞬きが止まった。長い睫毛がかすかに震え、漆黒の瞳に熱い潤いが宿る。ナイフを握る右手の小指が、ぴくりと跳ねた。
見たことのある反応だ。こいつの「美味い」のサインだ。顔に出せない分、体の末端に出る。
四口目からは加速した。いつも通り、所作は完璧なのに速度だけがおかしい。フォークとナイフを使いこなしながら、白飯は箸で頬張る。二刀流かよ。味噌汁を啜り、またハンバーグに戻る。
最後の一切れを口に入れて、彼女は皿を見下ろした。ソースの一滴まで残っていない。
「……ごちそうさま、でした」
「お粗末さまです」
もう定型文になっている。
沈黙。いつもならここで洗い物の流れに入るのだが、今日は彼女が動かなかった。
フォークを置いた手が、ちゃぶ台の端に触れている。何か言おうとしている。口が、わずかに開いては閉じる。
三回目で、ようやく声になった。
「……名前」
「ん?」
「……あなたの、名前を、教えてください」
そうか。三日間、飯を食いに来ていたのに、俺は自分の名前を言っていなかった。
「結城。結城湊」
「ゆうき、みなと」
彼女がゆっくりと繰り返した。唇が動きを確かめるように、一音ずつ丁寧に。
「……結城さん」
「湊でいいよ。同い年だろ、たぶん」
「……」
長い沈黙。テーブルの端を掴む指先に、かすかに力が入った。
「……みなと、さん」
呼ばれた。下の名前で。
なんだ、その呼び方。「さん」を取ればいいのに、置いたまま呼ぶから妙な距離感になっている。近いのか遠いのか、わからない。
「俺からも聞いていい? 名前、もう知ってるけど」
「……はい」
「鈴音さん?」
「……鈴音、で」
彼女のほうが先にモノローグの壁を突破した。驚いた。
「……私のほうが、先に、ご飯をもらっているので」
理屈が独特だ。
「じゃあ、鈴音」
呼んだ瞬間——彼女の耳が、今日いちばんの赤を記録した。
◇
洗い物を二人でやった。もう暗黙の了解になっている。俺が洗って渡す。鈴音が拭いて棚に並べる。
彼女がうちの食器棚の配置を覚えていることに、今更ながら気づいた。皿は左、茶碗は右、コップは上段。一度も聞かれていないのに、完璧に正しい位置に戻していく。
帰り際、玄関で。
「……みなとさん」
「ん」
「……明日は、作りすぎなくても、大丈夫です」
「?」
「……多く作りすぎたから食べに来い、と言わなくても。……私は、来ます」
ドアが閉まった。
廊下に、鈴音の足音が消えていく。
手元には、彼女が置いていった料理油の袋。
そして彼女の手には、俺が余ったハンバーグを詰めて「明日のお昼にでも」と持たせたタッパーがある。
タッパーを返してもらうといった、次につなげるための小細工も。
米を炊きすぎたという、不器用な言い訳も。
もう、要らなくなった。




