第3話 三合じゃ足りない
三日目。
講義のあと、スーパーに寄った。カゴの中身を無意識に確認して、気がついた。
鶏もも肉、二枚。にんじん、二本。じゃがいも、四つ。玉ねぎ、三つ。
一人暮らしの買い物じゃない。
どう見ても二人分だ。いつからだ。いつの間に、こんな量を当たり前のようにカゴに放り込むようになった。
昨日の夜のことを思い出す。「明日もタッパーを返しに来ます」と言った彼女の声。返すタッパーなんてもうないくせに。あの不器用すぎる「また来ていいですか」の代用品みたいな嘘を聞いて、俺は——今、二人分の食材を買い込んでいる。
……野良猫だ。あれは野良猫なんだ。
エサをやったら毎日来るようになる。それで飼い主のつもりになったら痛い目を見る。わかっている。わかっているが、カゴからじゃがいもを戻す気にはならなかった。
◇
帰宅して台所に立つ。今日は肉じゃがにしよう。
鶏もも肉の余分な筋と脂を丁寧に取る。これをやるかやらないかで、仕上がりの雑味が全く変わる。身に数カ所、浅く切れ目を入れておく。火の通りが均一になる。
玉ねぎを繊維に沿って櫛形に切る。じゃがいもは面取り。にんじんは乱切りにしておく。鍋を温めて油を少々、鶏肉を皮目から焼く。じゅう、と低い音。香ばしい匂いが立ち上がる。
焼き色がついたところで玉ねぎを加える。透き通るまで炒める必要はない。少し汗を掻く程度でいい。そこに出汁——今日は昆布と干し椎茸の合わせ出汁——を注ぎ、醤油、みりん、砂糖。砂糖はほんのひとつまみだけ。甘すぎると飽きる。
じゃがいもとにんじんを入れて、落し蓋をする。
煮込んでいる間に、副菜を二品。ほうれん草のおひたしと、たたききゅうりの浅漬け。
——なんで俺、副菜まで二品作ってるんだ。
一人暮らしの夕飯で、副菜を二品も並べる学生がどこにいる。実家の癖だ。出す以上は最低三品、という親父の声が脳裏に響く。逃げてきたはずなのに、体に染みついたものは取れない。
面倒くさい。面倒くさいが、手を抜けない。
◇
十八時二十三分。肉じゃがの味が馴染んだ頃、いつもの音がした。
——カサ。
あの爪の先がドアに触れる音。ノックよりも小さくて、消えそうな音。
昨日までは三十秒ほど待ってから開けていたが、今日は十秒で開けた。なんとなく、早くなった。
氷室鈴音がいた。今日も無表情。手には——
「……タッパーを、返しに来ました」
持っているのは、俺の部屋のどこにもないタッパーだった。百均で買ったばかりの新品だ。値段のシールがまだ貼ってある。
真顔で新品のタッパーを差し出す彼女と、それを受け取る俺。
「ありがとう……って、これ俺のじゃないよな」
「……」
沈黙。耳、赤い。
「……飯、食ってく?」
「……はい」
今日は即答だった。
◇
ちゃぶ台に肉じゃが、おひたし、浅漬け、白飯、味噌汁を並べた。
彼女は席に着くなり——食卓を見渡した。
その目が、ほんの一瞬だけ見開かれた。気づかなければ見逃すほどの変化。だが俺は見た。
おひたしの、ほうれん草の色だ。
氷水で締めたから、鮮やかな緑が残っている。実家で仕込みを手伝っていた頃、色止めだけは完璧にやれと耳にタコができるほど言われた。それを今もやっている自分に少し呆れる。
「いただきます」
俺が言うと、彼女も言った。今日は声が少しだけ——本当にわずかだけ——大きかった気がする。
肉じゃがに箸を伸ばす。鶏肉を一口。じゃがいもを半分。にんじん。出汁を含んだ玉ねぎ。
三口目で、彼女の瞬きが止まった。長い睫毛がかすかに震え、漆黒の瞳に潤いが宿る。
不味いのか。
いや——違う。おひたしを口に入れたあと、箸を持つ右手の小指が、ぴくりと跳ねた。それを見て、確信する。
こいつ、美味いと思っている。
顔には出さない。声も出さない。けれど体の末端——指先、耳、瞳孔——だけが反応している。味に嘘がつけない体質か、あるいは嘘のつき方を知らないだけか。
「……このおひたし」
初めて、食事中に彼女が口を開いた。
「ん?」
「……茹で時間、四十秒くらいですか。色止めが完璧です。それに……」
箸の先で、おひたしの断面を覗いている。
「……鰹節と薄口醤油の地浸しですけど、出汁の温度を下げてから漬けてます。味が芯まで入らないように、表面だけにとどめてる」
参った。また当てた。
茹で時間は正確には四十五秒だが、それはもう誤差の範囲だ。地浸しの温度管理まで言い当てるとは、もう素人の舌じゃない。料理人の舌ですらなく、もっと根本的な——鑑定士のような舌だ。
「よく、わかるな」
「……ずっと、食べてきたから」
短い答え。「作ってきた」ではなく「食べてきた」。彼女は料理をする側じゃなく、食べる側の人間という意味か。
その言葉の奥に、何かがあるような気がした。けれど踏み込む距離ではなかった。隣人だ。昨日今日の。
「おかわり、いる?」
「……いい、ですか」
「肉じゃが、まだ鍋に残ってるから」
取り分けて渡すと、彼女は小さく頭を下げた。
◇
食後。洗い物をしている俺の横に、彼女がいた。
いつの間にか台所に立っている。手には——布巾。
何も言わずに、洗い終わった食器を受け取り、丁寧に拭き始めた。
「あ、いいよ。客に洗い物させるわけには——」
「客じゃ、ないです」
遮られた。声は相変わらず小さかったが、はっきりと聞こえた。
「……ご飯を、いただいているので。……これくらいは」
返す言葉が見つからなかった。
二人で並んで、洗い物をした。蛇口の水音と、布巾で磁器を撫でる音だけが、小さな台所に響いていた。
彼女の横顔を盗み見る。無表情。変わらない。けれど、食器を拭く手つきは——不思議なほど丁寧で、どこか嬉しそうに見えた。
気のせいだろう。たぶん。
◇
帰り際。
「……明日も」
「タッパーを返しに?」
「……はい」
百均のシールが貼ったままの新品タッパーを見つめる。いい加減、口実が崩壊していることに本人は気づいているのだろうか。
「……明日は、何を」
「ん?」
「……何を、作りますか」
初めて、彼女のほうから献立を聞いてきた。
「まだ決めてないけど。何か希望ある?」
長い沈黙。彼女はドアの取っ手に手を置いたまま、数秒——本当に長い数秒——のあと、こう言った。
「……ハンバーグが、食べてみたいです」
ドアが閉まった。隣の部屋の鍵が回る音。
ハンバーグ、か。
牛と豚は六対四。つなぎはパン粉と卵。玉ねぎは飴色まで炒めて冷ましてから——。
台所に戻りかけて、立ち止まる。
また二人分の段取りを、頭のなかで組み始めている自分がいる。
……三合じゃ、やっぱり足りないな。




