第2話 タッパーと、ドアの前の沈黙
翌日の夕方、講義を終えて帰宅すると、二〇二号室のドアの前に何かが置かれていた。
タッパーだった。
透明のプラスチック容器。蓋がぴっちりと閉められており、中に何か入っている。覗き込むと、白い紙が挟まれていた。取り出す。
『昨日は ありがとう ございました。
おれいです。
氷室 鈴音』
丁寧だが、妙にたどたどしい字だった。文字の間隔が開きすぎていて、小学生の作文みたいだ。けれど一画一画を慎重に書いたのだろう、線だけは真っ直ぐだった。
タッパーの中身は、あめ玉が三つ。
……お礼がこれか。
いや、いいんだけど。別にうどん一杯だし、見返りを求めて出したわけでもない。ただ、高そうな飴だなとは思った。スーパーの袋入りではなく、京都の老舗菓子屋が出しているやつだ。実家で客に出していたから見覚えがある。こんなものを持っている大学生は、そうはいない。
氷室鈴音。名前を知った。それだけのことだ。
中身を取り出し、空になったタッパーを洗う。そのまま持っておくのも不自然なので、帰り際に彼女の部屋である二〇三号室のドアの前にそっと置いておいた。
◇
その日の夕飯は豚の生姜焼きにした。
豚ロースに隠し包丁を入れて、生姜は繊維を断つ方向にすりおろす。みりんと醤油と酒を合わせたタレに十五分だけ漬ける——漬けすぎると肉が硬くなる。フライパンに油を引いて、中火の少し手前。一枚ずつ広げて置いた肉が、ジュウ、と低い音を立てる。
焼き色がついたところで一度引き上げて、タレを煮詰める。キャベツは手でちぎった方が味が絡む。千切りよりも面が荒くなって、こっちの方が好きだ。
炊飯器が「炊けた」と知らせる。蓋を開けると、白い湯気が顔に当たった。しゃもじでほぐす。米粒が立っている。
——ちょっと多く炊きすぎたか。
一人暮らしをして半年になるが、いまだに量の調整が下手だ。実家の料亭では二升三升が当たり前だったから、一合の世界に慣れない。今日なんか三合炊いてしまった。一人で食う量じゃない。
生姜焼きを皿に盛り、味噌汁を椀に注ぎ、テーブルに並べた。一人分の食卓。静かなもんだ。
箸を取ろうとしたとき、玄関のほうから音がした。
ノック。ではなかった。
なにか硬いもの——爪の先か指の関節あたり——がドアの表面に触れる、カサ、という小さな音。ノックする勇気がないまま、ドアに手だけ当てているような、そんな音。
五秒ほど待った。音は続いている。控えめに、しかし止まらずに。
立ち上がって、ドアを開けた。
氷室鈴音が、いた。
昨日と同じ無表情。昨日より少しだけマシな顔色。手には——空のタッパーを持っている。さっき俺が洗って、彼女のドアの前に置いておいたやつだ。
沈黙。
互いに何も言わない時間が、たぶん十秒くらい流れた。春の夕暮れの匂いと、俺の部屋から流れ出る生姜焼きの匂いが、廊下で混ざる。
彼女の視線が、一瞬だけ俺の肩越しに泳いだ。部屋の奥——食卓のあたりを見ている。
そのあと、すぐに視線を戻した。俺の胸元あたりを見ている。目は合わせてくれない。
口が、動いた。
「……タッパーを、返しに」
「あ、うん。ありがとう」
受け取る。
いや、おかしい。これ、お前のタッパーだろ。俺が返したものを、なぜまた俺に返す。
ツッコミを入れるべきか迷ったが、彼女はそのまま、踵を返そうとした。
背中を向けた瞬間、もう一度——鳴った。
ぐぅ。
昨日よりは控えめだった。だが、静かな廊下にはしっかりと響く。
彼女の背中が硬直するのが見えた。肩甲骨のあたりがギュッと寄る。そのまま数秒、微動だにしない。
逃げるか、振り向くか——彼女の足先が、かすかに揺れた。
「……今日、飯は」
俺が聞いた。
「……食べて、ません」
背中が答えた。
「——米、炊きすぎたんだよな」
独り言みたいに呟いた。嘘ではない。三合もあるのだ。
「生姜焼き、食べます?」
彼女がゆっくりと振り返った。あの無表情の顔。ガラス球の瞳。
——ただ、耳の先端が、もう赤い。
「……いい、んですか」
「余るから。一人で三合はさすがにキツい」
言い訳を重ねた。別に好意だとか親切だとか、そういうことじゃない。食材を無駄にしたくないだけだ。
彼女はまた、あの一ミリの頷きをした。
◇
食卓に、二人分を並べた。
生姜焼き。千切りキャベツ。豆腐とわかめの味噌汁。白飯。
「いただきます」は、俺が先に言った。彼女も小さな声で続いた。
箸を取る所作がまた、綺麗だった。やっぱり普通じゃない。この手つきは、叩き込まれた人間のそれだ。俺がそうだったように。
生姜焼きを一切れ、口に運ぶ。
咀嚼。
一口目。二口目。沈黙。
三口目で——彼女は茶碗に手を伸ばした。
白飯を食べる。また生姜焼きを食べる。米。肉。米。味噌汁。米。
加速していく。
顔は変わらない。表情は人形のまま。けれど箸を動かすペースが、確実に上がっている。米粒を残さないように丁寧に拾いながら、それでいて早い。
最後に味噌汁を飲み干したとき、彼女の動きが止まった。
椀をゆっくりと下ろす。膝の上に手を置く。
「……ごちそうさま、でした」
「お粗末さまです」
また出た。この台詞。
彼女は茶碗の中を覗き込んでいた。一粒も残っていない。
「……この味噌汁」
「ん?」
「……出汁が、昨日と同じ」
驚いた。
昨日のうどんと、今日の味噌汁。出汁の引き方は確かに同じだが、昆布と鰹の配分を少し変えている。味噌の風味も加わるから、普通は気づかない。
「よく、わかるな」
「……一番出汁、ですよね。昆布を沸騰前に引き揚げて、鰹節は煮出さずに自然に沈める。……昨日より、昆布の比率を少し上げてます」
黙った。
この女、舌がおかしい。いい意味で。一口啜っただけで、出汁の構成を言い当てた。そんな芸当は、実家の板前連中でも全員はできない。
何者だ、この隣人。
「……おかわりは」
聞くと、彼女はほんの一瞬だけ顔を上げた。無表情。けれど、ちゃぶ台の端を掴む指先に、わずかに力がこもっていた。
「……いい、ですか」
「米、まだ二合分くらい残ってるから」
茶碗を受け取って、よそう。少し多めに盛った。
彼女はそれを受け取ると、また、あの途轍もない速度で食べ始めた。
俺は味噌汁の椀を持ったまま、しばらくそれを眺めていた。
食べ方は完璧に美しいのに、勢いだけが暴力的。どこかの令嬢が、野良猫に憑依されたみたいだった。
◇
帰り際、玄関先で彼女が立ち止まった。
「……明日も」
「ん?」
「……タッパーを、返しに来ます」
今日、タッパーはもう返した。返すものはない。それなのに明日も来ると言っている。
意味がわからない。わからないが——彼女の耳はまた、赤かった。
「……ああ。じゃあ、また」
ドアが閉まる。隣の部屋の鍵が回る音。
テーブルの上には、空っぽの茶碗が二つ。米粒が一つも残っていない、完璧な空。
洗い物をしながら思う。
明日、何を作ろう。
三合じゃ、足りないかもしれない。




