第1話 隣の部屋の、うずくまる影
四月の夕暮れは、妙に腹が減る。
大学の講義を終えてアパートに戻り、買い物袋からネギと豚バラを引っ張り出しながら、俺はそんなことを考えていた。築三十年を越えるこの「コーポかすみ」とかいうボロアパートは、壁が薄く、床は軋み、エアコンは咳をするような音を立てる。だが家賃だけは学生に優しい。それだけが取り柄だ。
二〇二号室の鍵を回すと、目の前に——人がいた。
正確には、隣の二〇三号室のドアの前に、人がうずくまっていた。
黒い髪が、重力に従って床に流れている。腰まであるストレートの髪。華奢な肩。動かない。
死んでる。
一瞬そう思って心臓が跳ねたが、よく見ると呼吸はしている。肩がかすかに上下していた。ただ、その動きがあまりにも弱々しくて、廊下に放置された人形みたいだった。
「……あの、大丈夫ですか」
声をかけた。反応がない。もう一度、少し大きめの声で。
「——すみません。具合、悪いですか」
ゆっくりと、顔が上がった。
白い。透き通るように白い肌。整った顔立ち。人形、という第一印象は間違っていなかったらしい。ただ、その人形の目は焦点が合っておらず、唇はわずかに色を失っていた。
「……鍵が」
声が小さすぎて聞き取れなかった。一歩近づく。
「……鍵が、見つからなくて」
抑揚のない、か細い声だった。バッグの中身をぶちまけたらしく、足元には財布やペンケースが散乱している。その中に鍵らしきものは——あった。彼女の膝のすぐ横に、銀色の鍵が転がっている。
「これ、鍵じゃないですか」
拾って差し出す。彼女は俺の手の中の鍵を、三秒ほど無言で見つめた。それから、ゆっくりと受け取った。
「ありがとう、ございます」
そのまま立ち上がろうとして——足がもつれた。
反射的に肩を支えた。腕に伝わったのは、驚くほどの軽さだった。骨と皮しかないんじゃないかと思うくらい。支えた拍子に、彼女の腹が盛大に鳴った。
ぐぅぅぅぅぅ。
共用廊下に響き渡る、遠慮を知らない胃の叫び。
沈黙。
彼女は俺の肩に手を置いたまま、微動だにしなかった。表情も変わらない。ただ——耳の先端だけが、じわりと、赤くなった。
「……」
「……」
春の夕風が、廊下を吹き抜けた。
「——飯、食います?」
なぜそう言ったのか、自分でもよくわからない。放っておけなかった、としか言いようがない。実家にいた頃から、こういう性分だった。厨房の隅で腹を空かせている猫を見つけたら、ねこまんまを作らずにはいられない。それと同じだ。たぶん。
彼女は俺を見上げた。無表情。読めない目。人形のガラス球みたいな瞳が、俺の顔を映している。
それから——ほんの一ミリだけ、顎が下がった。
頷いた。たぶん、頷いたのだと思う。
◇
二〇二号室——つまり俺の部屋に彼女を通すと、まず台所に向かった。
冷蔵庫を開ける。ネギ、卵、薄揚げ。冷凍庫に讃岐うどんが二玉。今日の夕飯は豚バラ炒めにするつもりだったが、あの顔色の人間にガッツリ系は胃が受け付けないだろう。
うどんにしよう。
鍋に水を張る。昆布を一枚落とす。火をつけて、小鍋で別に湯を沸かし、うどんは茹ですぎないよう硬めに引き上げる段取りを頭のなかで組む。
昆布がゆらゆらと水面近くに浮き上がり始めたところで引き揚げ、鰹節をひとつかみ。沸騰直前に火を止めて、鰹が沈んだら晒しで濾す。一番出汁。実家の料亭で、嫌というほど叩き込まれた基本中の基本。
——いや、別にそんな大層なものを作っているわけじゃない。
ただのうどんだ。ただの、温かいうどんを作っているだけだ。出汁の引き方が少々丁寧なだけで、盛り付けだってどんぶりにぶっ込むだけ。実家の親父が見たら鼻で笑うレベルの、家庭料理未満。
刻んだ葱を散らし、薄揚げを短冊に切って乗せる。卵を丁寧に落として、半熟のまま蓋をする。
「——どうぞ」
ちゃぶ台の前に正座している彼女の前に、どんぶりを置いた。湯気がふわりと立ち上がり、出汁の香りが六畳間に広がる。
彼女は、どんぶりを見下ろしていた。
三秒。五秒。
動かない。
食べないのか、と思った瞬間——彼女の手が動いた。
箸を取る。その所作が、妙に綺麗だった。指先の角度、手首の返し。まるで誰かに徹底的に仕込まれたような、一分の隙もない箸の持ち方。
うどんを一本、すくい上げる。透明な出汁が糸を引いて落ちる。
口に運ぶ。
咀嚼する音は、ほとんど聞こえなかった。静かに、丁寧に、噛んでいる。
二口、三口。
四口目で、彼女の動きが——止まった。
なんだ。まずかったか。
身構えた俺の目の前で、彼女はゆっくりとどんぶりを持ち上げた。出汁を一口、啜った。
沈黙。
それから——
目が、変わった。
無表情は変わらない。口角も動かない。けれど、あのガラス球みたいだった瞳の奥に、確かに何かが灯った。瞳孔が、わずかに開いた。光を取り込むように。
そこから先は、早かった。
うどんが、消えていく。さっきまで倒れかけていた人間とは思えない速度で、麺が、揚げが、卵が消えていく。箸の運びは相変わらず完璧に美しいのに、ペースだけが明らかにおかしい。
最後の一滴まで出汁を飲み干すと、彼女はどんぶりをちゃぶ台に置いた。
こつん、と小さな音がした。
「……ごちそうさまでした」
小さく、しかしはっきりと。彼女は初めて、俺の目をまっすぐ見て言った。
「お粗末さまです」
俺は反射的にそう返した。うちの料亭で、千回は言わされた台詞。口に馴染みすぎていて、勝手に出た。
彼女は微動だにしなかった。ただ——膝の上に置いた手が、かすかに握られていた。
◇
名前も聞かないまま、彼女は帰っていった。
残されたのは、空っぽのどんぶりと、出汁の残り香。
洗い物をしながら思い出す。あの箸の持ち方。あの所作。空腹でフラフラのくせに、食べ方だけはどこかの令嬢みたいに完璧だった。
——まあ、隣人が変な奴だろうが、俺には関係ない。
蛇口を閉める。水滴が、シンクの底を叩いた。




