第65話 リリの復帰——美味しいは正義
味噌汁が九十点になった日の夜。リリが配信を再開した。
夜十時。俺はベッドでスマホを構えた。
銀髪のアバター。ボイチェンの声。だが——今日のリリは、いつもと違った。
『——皆さま、お久しぶりでございます。リリでございます。配信を再開いたします』
コメント欄が爆発した。
『リリおかえり!!!!!!!!!!』
『待ってた ずっと待ってた』
『リリの毒舌が足りなかった 世界に味がしなかった』
『本日は——少しだけ、わたくしの話をさせてください』
コメント欄が静まった。
『わたし、最近——味がわからなくなっていました』
ざわめき。
『食べても、おいしいかわからないんです。素材の分析はできます。焼き加減も、塩加減も、出汁の構成も。でも——「おいしい」が消えたんです。データだけが残って、心がついてこなかった』
『リリ……』
『それって味覚障害? 大丈夫なの??』
『原因は——心です。昔から、わたしは「おいしい」だけでは許されませんでした。何がどうおいしいのか、完璧に分析して説明することを求められてきました。それが——わたしの価値だと、思い込んでいました』
沈黙。コメントも止まっていた。
『でも——ある人が、オムライスを作ってくれました。百均のフライパンで。スーパーの卵で。大手メーカーのケチャップで。技術も何もない、ただのオムライスです。分析しようにも、分析する要素が何もない』
『それを食べた時——わたしは、泣きました。何も言えないのに、おいしかった。分析できないのに、おいしかった。温かくて、ぜんぶがぜんぶ、おいしかった』
コメント欄に涙の絵文字が溢れた。
『その人が言ってくれました。「分析なんかしなくていい。美味いと思えば、それで充分だ」って』
『妖精ーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!』
『妖精が救った。妖精が世界を救った』
『百均で世界を救う男、妖精』
『だから——今日から、わたしのレビューのスタイルを少し変えます。完璧な分析は、これからもします。それはわたしの武器ですから。でも——分析の前に、まず「おいしい」か「おいしくない」かを、ちゃんと言います。理屈の前に、心を。……それが——あの人に教えてもらったことです』
『あと——以前、わたしの配信で「お前が作ってみろ」というコメントがありました。……あの時は、何も答えられませんでした。でも今は言えます。——はい、作っています。まだ下手ですが。味噌汁は九十点になりました。おにぎりも握れます』
コメント欄が——また爆発した。
『九十点!? 六十五点から九十点まで上がったの!? リリの成長速度がバグってる!!!!!!!!!!』
『「理屈の前に心を」リリ……成長してる……母親みたいに泣いてる俺……』
『アンチコメした人、これ見てるか? リリはお前の何倍も努力してるぞ』
『以上です。——本日のレビューに参りましょう。本日のお題は、コンビニスイーツです。では——』
いつもの毒舌が始まった。だが——レビューの冒頭に、リリは三文字を添えた。
『まず——おいしいです。その上で申し上げますと——』
「おいしい」が、最初に来た。
分析の前に、心が。
壁の向こうから——配信の声が微かに聞こえる。鈴音の声。ボイチェンを通しているけれど、壁越しに聞こえる地声が混じっている。
強い声だった。もう——震えていなかった。




