第63話 家庭のオムライス
鈴音が「みなとは私のです」と言った翌日。
俺は台所に立っていた。
今日は——特別な料理を作ると決めていた。
料亭の技術を完全に捨てた、ただ温かさだけが詰まった料理。
オムライス。
◇
鶏もも肉を小さく切る。玉ねぎのみじん切り。ケチャップライス。バターで炒める。
桂剥きもしない。飾り切りもしない。三枚おろしもしない。出汁も引かない。
百均のフライパン。百均のフライ返し。スーパーの卵。大手メーカーのケチャップ。
何一つ料亭の要素がない。
卵を三つ割った。箸でざっと混ぜる。——丁寧に混ぜすぎない。少しムラがあるくらいがいい。家庭の卵焼きは、ムラがあるほうが美味しい。
熱したフライパンにバターを落とす。ジュワ。卵を流し入れる。箸で大きくかき混ぜて——半熟のうちにケチャップライスの上にスライドさせる。
形はいびつだった。ホテルのオムライスのように完璧な紡錘形ではない。端が崩れかけていて、卵の厚みにムラがある。
——いい。これでいい。
ケチャップを上からかけた。「SUZUNE」と書こうとして——やめた。さすがに気持ち悪い。代わりに何も書かずに、ただぐにゃりと一本線を引いた。
◇
鈴音が来た。合鍵。
「……おじゃまします」
「おかえり。今日は——オムライス」
テーブルにオムライスが置いてある。二人分。
鈴音は——オムライスを見た。
「……これは」
「家庭のオムライス。料亭の技術、一切使ってない。百均のフライパンで、スーパーの卵で、大手メーカーのケチャップで作った。分析するような要素は何もない」
鈴音は座った。オムライスを見つめている。
「……技術的に分析する必要がないということですか」
「そうだ。昆布の産地も鰹節の削り方も関係ない。ただのオムライスだ。ただ——温かいだけの」
スプーンを鈴音に渡した。
「食べてみてくれ。分析しなくていい。点数もつけなくていい。ただ——美味いか不味いかだけ、教えてくれ」
鈴音はスプーンを受け取った。
オムライスの端にスプーンを入れた。卵が崩れて、中からケチャップライスが覗いた。
一口。
口に入れた。
咀嚼。
三秒。
鈴音の目が——開いた。
瞳孔が、開いた。食材鑑定モードではない。ただ——驚いている。
「……何これ」
「オムライス」
「……わかります。でも——何これ」
鈴音の声が——震え始めた。
「……分析できません。……卵の焼き加減がどうとか、ケチャップのメーカーがどうとか——何も言えません」
「それでいい」
「……でも——美味しい」
涙が——落ちた。
「……美味しいです。……何も言えないのに。……美味しいしか出てこない」
二口目。三口目。涙が落ちるたびに、スプーンが動いている。
「……温かい。……おなかの中が、温かい」
味覚が——戻り始めている。
分析する必要のない料理。完璧である必要のない料理。ただ「美味しい」と言えばいい料理。
母親の呪い——「何がどう美味しいのか論理的に説明しなさい」の、対極にある料理。
説明なんてしなくていい。「美味しい」だけでいい。
「……みなとさん」
「ん」
「……もっと、食べていいですか」
「全部食え。足りなかったら、もう一個作る」
鈴音のスプーンが加速した。所作は完璧なのに速度がおかしい、あの食べ方。
小指が——跳ねた。
戻ってきた。鈴音の「美味しい」のサインが。
全部食べた。皿に何も残っていない。ケチャップの跡すら舐めるように。
「……ごちそうさまでした」
「お粗末さまです」
鈴音は——涙を手の甲で拭った。
「……みなとさんは。……いつも私を。……料理で救ってくれますね」
「料理しかできないから」
「……嘘です。……料理だけじゃないです」
鈴音の瞳に——光が、はっきりと戻っていた。ガラス球ではない。人間の目。温度のある目。
「……分析できなくても、美味しいって言っていいんですね」
「当たり前だ。誰に遠慮してるんだ」
「……母に」
「お前の母親はここにいない。ここにいるのは——」
「……みなとさん、です」
「そうだ。俺は分析なんか求めてない。お前が美味いと思えば——それで充分だ」
鈴音の唇が——微かに上がった。今日も二ミリくらい。
でも——確実に。笑った。




