第61話 『みなとは、わたしのです』
三日後。
鈴音の味噌汁が止まったまま、月曜日が来た。後期の講義が始まっている。
昼休み。学食。
いつものように俺と健太が食べていると、キララがやってきた。
「湊くーん! 隣いい?」
「ああ」
座った瞬間——キララが俺の皿のポテトを一本つまんだ。
「もらーい! ……あ、美味しい!」
「人の飯を取るな」
「えー、一本くらいいいじゃーん」
そのやり取りの最中——学食の入り口に、鈴音が立っていた。
トレイを持って。一人で。
鈴音は俺のテーブルを見た。俺の隣に座るキララを見た。キララが俺の皿からポテトをつまんでいるのを見た。
そして——踵を返そうとした。
「鈴音」
呼んだ。
鈴音が止まった。振り返らない。
「こっち来いよ。席あるぞ」
三秒の沈黙。
鈴音がゆっくりと振り返った。無表情。顔面蒼白。
「……いえ。……あちらが、空いているので」
学食の隅を指差した。窓際の一人席。
「一人で食うのか?」
「……構いません」
「構うよ。こっち来い」
鈴音の目が——揺れた。一瞬だけ。ガラス球の奥に、何かが光って——消えた。
「……おじゃまします」
鈴音が来た。俺の向かい側に座った。キララの反対側。
四人で囲む学食のテーブル。健太が空気を読んで黙っている。
キララが——鈴音に笑いかけた。
「氷室さーん! 一緒に食べよう! 今日のAランチ美味しいよ!」
「……はい」
鈴音は箸を取った。日替わり定食を食べ始めた。機械的に。
キララが——また俺との距離を詰めた。肘が腕に触れる。
「ねー湊くん、今度の日曜さ——」
その時だった。
「……やめて、ください」
声がした。小さな声。だが——学食のざわめきの中でも、はっきり聞こえた。
全員が黙った。健太が。キララが。俺が。
鈴音が——キララを見ていた。
「……星野さん。……みなとさんに、触らないでください」
キララが目を瞬いた。笑顔のまま。
「えっ……? 触るって、別に——」
「……触っています。……肘が。腕に。……やめてください」
声は震えていなかった。小さかったけれど——一語一語に、意思が込められていた。
「えっと……ごめんね? 私、距離感わかんなくて——」
「……距離感の問題ではありません」
鈴音が——テーブルの端を握った。白くなるほど。
「……みなとさんは。……私のです」
時間が止まった。
学食のざわめきが——遠くなった。
キララが固まった。健太が固まった。俺が——固まった。
「……みなとさんのごはんは、私のごはんです。みなとさんの台所は、私の台所です。みなとさんの隣は——」
声が、震え始めた。
「……私の場所です。……他の人に——取られたくないです」
涙は流れなかった。無表情のまま。だが——耳が、鮮やかに赤かった。今までで一番の赤。
学食が——静まり返った。周囲の学生が何人か振り向いている。
キララが——最初に立ち上がった。
「……ごめんね、氷室さん。私——全然わかってなかった」
声が静かだった。いつもの甲高いテンションではなく、低い、本当の声。
「……湊くんのこと、そういう感じだったんだね。——私、空気読めなくてごめん」
トレイを持って、キララがテーブルを離れた。
走らずに。振り向かずに。静かに。
残されたのは、鈴音と俺と、呆然としている健太。
健太が咳払いをした。
「……俺、ちょっとトイレ行ってくるわ」
気を利かせて去っていった。
二人きりになった。学食の喧噪が、少しずつ戻ってくる。
「……鈴音」
「……言っちゃ、いました」
鈴音の手が——テーブルの端を離した。手のひらが赤くなっている。握りしめすぎて。
「……すみません。……気持ちが、先に出てしまって」
「謝るな」
「……でも——」
「ありがとう」
鈴音が俺を見た。目が、大きく見開かれていた。
「……ありがとう?」
「言ってくれて、ありがとう」
鈴音の瞳に——光が戻った。ほんの一瞬。ガラス球が、もう一度光を映した。
「……みなとさんは。……迷惑じゃ、ないですか」
「迷惑なわけないだろ。——お前が隣にいてくれるのが、俺にとっては当たり前だったから」
当たり前だと気づいていなかった。失いかけて初めてわかる、いつもの場所の大きさ。
鈴音の耳は——まだ赤かった。
「……日替わり定食、冷めてるぞ」
「……はい」
二人で、学食の残りを食べた。冷めた定食を。
美味くなかった。でも——鈴音の小指が、微かに跳ねた。




