第60話 キララの踏み込み
九月第三週。
鈴音の味覚は少しずつ回復しているようだった。俺に過去を話したことで、心の圧力が多少は抜けたのかもしれない。味噌汁のスコアは八十七点に戻った。
だが——キララが止まらなかった。
◇
木曜日の放課後。
ゼミの帰り、キララが俺の隣を歩いていた。いつもの距離感。肘が腕に触れるか触れないかの距離。
「ねー湊くん。明日の夜さ、うちの事務所の打ち上げがあるんだけど、一緒に来ない?」
「事務所?」
「えっと——その。友達の仕事仲間の打ち上げっていうか」
ぼかしている。VTuber事務所の打ち上げだろう。アリアとしての活動は隠したいのかもしれない。
「パスで。明日は飯の買い出しがある」
「氷室さんと?」
「ああ」
「……いつも氷室さんとだよね。買い物も、ご飯も」
キララの声が——少しだけ、いつものトーンと違った。
「……私もさ、一緒に行っちゃダメかな。買い物」
「え」
「三人で。楽しそうじゃん。私も食材の選び方とか、教えてほしいし」
「キララ、お前料理しないだろ」
「だから教えてほしいんだよー! 湊くん上手いんでしょ? 氷室さんも最近始めたんでしょ? 初心者仲間として!」
断る理由が——見つからなかった。
キララに悪意はない。本当に楽しそうだと思っているだけだ。大勢で何かをすることが好きで、一人でいることが苦手で。——そういう人間なのだ。
だが——スーパーは鈴音との大切な時間だった。食材を選び、鈴音が鑑定し、俺がそれを受け取る。あの無言のやり取りは、二人だけの儀式だ。
「鈴音に聞いてみる」
「やったー! 聞いてね!」
◇
夕食時、鈴音に伝えた。
「星野さんが明日、買い出しに一緒に行きたいって」
鈴音の箸が——止まった。
三秒。
「……三人で、ですか」
「ああ。断ってもいいぞ。嫌なら——」
「……いいです」
「いいのか?」
「……みなとさんが来てほしいと思うなら。……構いません」
その声には感情がなかった。容認ではなく——諦めに近い色。
「俺が来てほしいかどうかじゃなくて、お前がどう思うかだ」
沈黙。
「……わかりません」
鈴音は箸を再び動かした。機械的に。味噌汁を飲む。おかずを口に入れる。咀嚼する。
小指は動かなかった。
◇
翌日、三人でスーパーに行った。
キララは——予想通り、スーパーでも賑やかだった。
「わー! このトマト美味しそう! 赤くてかわいい!」
「色だけで選ぶな。よく見てみろ」
「えー? 何を見るの?」
俺がトマトの選び方を教えている横で——鈴音は、黙って立っていた。
以前の鈴音なら、トマトを手に取り、ヘタの状態を確認し、「これは二日前の入荷です」と断じていた。今は——手を伸ばさない。
キララが鈴音に声をかけた。
「氷室さんは何を選ぶー?」
「……特には」
「え、何か選んでよー! 氷室さんの方が詳しいんでしょ?」
鈴音の手が——伸びかけて、止まった。
スーパーの照明が、蛍光灯の白い光で食材を照らしている。その光の下で、鈴音の目は——曇っていた。
以前のような、食材を鑑定する瞳孔の開きがない。
「……このにんじんが、いいと思います」
「おー! 何でそれがいいの?」
「……色が、綺麗だから」
——色。
鈴音が食材を「色」で選んだ。以前なら断面の繊維密度まで言い当てたのに。
俺は——何も言えなかった。
帰り道、キララは先に帰った。「楽しかったー! またねー!」と手を振って去っていくキララの背中を見送りながら、鈴音が呟いた。
「……星野さんは、明るいですね」
「ああ」
「……私は、ああいうふうには——」
「お前はお前でいい」
「……」
鈴音は何も答えなかった。
その夜、味噌汁は持ってこなかった。




