第59話 令嬢の呪い
九月第二週の水曜日。夕食後。
鈴音が——話し始めた。
きっかけは何だったのか。俺が味噌汁の話をしたわけでもなく、キララの話をしたわけでもない。ただ——洗い物を終えて、二人でちゃぶ台に座っていた時、鈴音がぽつりと口を開いた。
「……私は。……氷室家の一人娘です」
氷室家。鈴音の実家。
「……父は、食品会社の会長です。母は——美食評論家でした」
「でした?」
「……今もそうですが。……母にとって『食べる』ことは、趣味ではなく仕事でした。そして——私は、母の後継者として育てられました」
話が始まった。
鈴音は——幼少期から、舌を鍛えられていた。三歳で味覚テストを受けさせられ、五歳で「この子には天賦の舌がある」と母に認定された。
それからが地獄だった。
毎日三食——全てがテストだった。何を食べても、素材を言い当て、調理法を分析し、改善点を述べることを求められた。「美味しい」とだけ言えば叱られた。「何がどう美味しいのか、論理的に説明しなさい」と。
「……七歳の時。……母に連れられて、フランスの三ッ星レストランに行きました。フォアグラのポワレだったと思います。一口食べて——」
「……」
「……『美味しい』と言いました。それだけ。……母は。……テーブルの下で、私の手をつねりました」
声は平静だった。感情を排した声。慣れている——この話を、自分の中で何度も反芻し、もう泣けなくなった人間の声だった。
「……完璧な舌。完璧な分析。完璧な令嬢。……それが母が私に求めたものでした。……私が『美味しい』とだけ言うと、『あなたの舌はそんなに安くない』と」
「……」
「……十五歳の時、初めて——味がわからなくなりました。何を食べても、データだけしか読み取れなくなった。『美味しい』が消えたんです。……体は分析できるのに、心が何も感じなくなった」
味覚喪失。心因性の。
「……高校二年で家を出ました。母とは連絡を取っていません。……大学に入って、一人暮らしを始めて。……でも、味覚は戻りませんでした」
そこで——鈴音の声が、初めて揺れた。
「……みなとさんのうどんを食べるまで」
「……」
「……あの夜。……空腹で倒れかけていた時に。……みなとさんのうどんを食べて。……初めて——三年ぶりに——『美味しい』と、思いました」
涙は流れなかった。だが——鈴音の瞳に、光が揺れていた。ガラス球がちゃんと光を映している。
「……それからずっと。みなとさんの料理を食べると、味がわかるようになりました。……世界中の三ッ星レストランで何も感じなかったのに。……百均の食器に盛られたうどんで、味が戻った」
「……」
「……でも——最近。また、わからなくなりました」
声が、消えかけた。
「……みなとさんの料理を食べても。……昆布と鰹の比率がわかっても。……心が、ついてこないんです」
「……鈴音」
「……完璧でなければいけない。……みなとさんの舌に恥じない鑑定をしなければ。……でも同時に。……星野さんの方が。……みなとさんの隣に、ふさわしいんじゃないかと」
「そんなことは——」
「……完璧な令嬢として食べなければいけない。でも完璧じゃない自分しかいない。……母の声が聞こえます。『あなたの舌はそんなに安くない』と」
鈴音の手が——テーブルの端を掴んでいた。白くなるほど強く。
「……味噌汁を捨てたのは。……一口味見して。……何も感じなかったからです。自分が作ったものの味が——自分でわからなかった」
全部わかった。
鈴音の味覚喪失は——心因性だ。幼少期の母親による過度な完璧主義教育がトラウマとなり、ストレスが蓄積されると味覚が消える。
一度目は実家のプレッシャー。二度目は——キララの存在とアンチコメントが引き金になった。
「鈴音。お前の舌は壊れていない」
「……」
「壊れてるなら、味噌汁の味噌の量が変わったことに気づけるわけがない。八十五点をキープしてるのは、舌がちゃんと機能してる証拠だ」
「……でも——」
「壊れてるのは舌じゃなくて、心だ。心が味を受け取ることを——拒否してる」
鈴音は——黙った。
俺の言葉を、噛み砕くように。
「……心」
「ああ。お前は——分析の精度で自分を証明しようとしてる。だがそれは母親の呪いだ。分析できなくても、味がわかる。わかるのに、信じられない。——そうだろ」
沈黙が長く続いた。
やがて、鈴音が小さく頷いた。あの一ミリの頷き。
「……みなとさんは。……どうやって。……自分の呪いを、解きましたか」
料亭の跡取り。完璧な板前。親父の期待。——俺の呪い。
「……解いてないよ」
正直に答えた。
「まだ逃げてるだけだ。解く方法は——わからない」
鈴音が、ほんの一瞬——笑った。
笑った、と言えるほどの変化ではなかった。唇が二ミリくらい動いただけだ。
「……二人とも、逃げてるんですね」
「そうだな」
「……でも。……逃げた先で、おにぎりを百個握れるようになったから。……逃げたことは、間違いではなかったと思います」
台所の蛇口から、ぽたり、と水滴が落ちた。
静かな六畳間に、二人の影。
互いの秘密を——半分ずつ、交換した夜だった。




