第58話 完璧でなければ
鈴音が——味噌汁を持ってこなくなった。
翌朝。いつもの時間に鍵が回った。鈴音が入ってきた。手ぶらで。
「……おはようございます」
「おはよう。味噌汁は?」
「……今日は、ありません」
「作らなかったのか?」
「……作りました。でも——捨てました」
捨てた。
「何で」
「……美味しくなかったからです。……味見をしても、よくわからなくなって。……みなとさんに出せるものではないと判断しました」
声には感情がなかった。事実報告のように、淡々と。
だが——その「淡々」こそが、異常だった。以前の鈴音なら、出来が悪くても持ってきた。六十五点の味噌汁を、震える手で差し出した。今は——自分で捨てている。
「鈴音。六十五点でも七十点でも、俺が飲む。何点だろうが持って来い」
「……でも——」
「でもじゃない。味噌汁の点数なんてどうでもいい」
鈴音が俺を見た。ガラス球の瞳。光が——曇っていた。
「……どうでもよくないです。……みなとさんの舌に出すものは、完璧でなければ——」
「完璧なんて俺は求めてない」
「……でも、みなとさんは料亭の——」
「俺は料亭を辞めた人間だ。完璧を追求する意味はない」
鈴音が——口を閉じた。
その目が、微かに揺れていた。何かを言いたそうに。けれど言葉が出てこない。
沈黙のまま、朝食の準備を始めた。味噌汁は俺が作った。鈴音は食器を並べた。
いつもの分担。だが——味噌汁の担当が、元に戻ってしまった。
◇
大学で、キララに会った。
「湊くーん! お昼一緒に食べよー!」
いつものテンション。いつもの笑顔。
だが——今日はキララの目が少し違った。輝きの奥に、何かを探るような色がある。
「ねー湊くん」
「ん」
「氷室さん、最近元気ないよね」
気づいていたのか。
「私ね、サークルの先輩に言われたことあるんだ。『キララはいつも元気だから、元気じゃない人の気持ちがわからない』って。……多分そうなんだと思う。でもさ——元気じゃない顔くらいは、わかるよ」
「……」
「氷室さん、何か悩んでるでしょ。私にできることある?」
善意だ。純粋な。キララには悪意がない。天真爛漫で、誰かが辛そうなら助けたい。ただ——その善意の矛先が、鈴音にとっては更なるプレッシャーになり得ることに、キララは気づいていない。
「ありがとう。でも——俺がなんとかする」
「湊くんがなんとかするんだ。……ふーん」
キララがにっと笑った。意味ありげに。
「湊くんってさ、氷室さんのことになると顔変わるよね」
「変わらない」
「変わってるよー。いつもポーカーフェイスなのに、氷室さんの話になると眉がちょっと下がるの。心配してる顔」
鋭い。陽キャは——こういうところが怖い。人の表情を読むのが上手い。
「……邪魔しないようにするね。でも、困ったら言って。私、役に立てないかもしれないけど、聞くことくらいはできるから」
キララが去っていった。パスタのトレイを持って、別のテーブルで友人の輪に合流していく。
あの輪の中心にいるキララ。誰とでも笑い合えるキララ。
鈴音には——ああいう輝きがない。言葉は少ないし、人見知りだし、笑うことすらほとんどない。
でも——俺は。
俺が見ていたいのは、キララの輝きではなかった。




