第57話 アンチの影
九月に入った。後期が始まる。
鈴音は食事を続けていたが、味への反応が鈍いままだった。味噌汁のスコアは八十五点前後を彷徨っている。本来の実力なら九十点に手が届くはずなのに——自分の舌で味見しても修正点がわからなくなっているのだろう。
そして——もう一つの問題が起きていた。
リリのチャンネルにアンチコメントが増えた。
アリアとのコラボで知名度が上がった反動だ。リリの毒舌に対して「何様だ」「料理もできないくせに偉そうに」「完璧主義者ぶってキモい」——そういうコメントが、少しずつ増えていった。
以前のリリなら——冷徹に無視するか、毒舌で斬り捨てていただろう。だが今のリリは——反応が遅い。コメントの管理が追いついていない。
ある日の配信で、それは起きた。
『——このケーキのスポンジは卵の泡立てが甘く、しっとり感が足りません。メレンゲの状態が——』
コメントが流れた。
『あーあ、また偉そうに。お前が作ってみろよ(笑)』
リリの声が——止まった。
三秒の沈黙。
『……ご指摘、ありがとうございます。……私は確かに、料理は得意ではありません。……ですが——』
言葉が途切れた。いつものリリなら、ここで完璧な反論を展開する。「私は食べる側のプロフェッショナルです」と。だが——
『……すみません。少し、お待ちください』
配信がミュートになった。
壁の向こうで——椅子が軋んだ。立ち上がった音。洗面所に行く足音。水の音。
……泣いている。
五分後、配信が再開された。
『失礼しました。……本日の配信はここまでとさせていただきます。ご視聴ありがとうございました』
コメント欄は炎上していた。アンチではなく——リリを心配するコメントで。
『リリ……大丈夫? アンチの言葉なんて気にしないで』
『お前が作ってみろの人、リリがどれだけ努力してるか知らないんだろうな。百個のおにぎりの話聞いたら黙るよ』
『リリちゃん、体調悪いなら休んで。無理しないで』
スマホを閉じた。
壁の向こうは静かだった。PCをシャットダウンする音。ベッドに座る音。
——「お前が作ってみろ」。
その一言が、鈴音のもっとも脆い部分を抉ったのだろう。
料理ができないことへのコンプレックス。柚葉に指摘され、不格好なおにぎりを百個握って、一度は乗り越えたつもりだった壁が——アンチの匿名の刃で、再び裂け始めている。
壁に拳を当てた。
行くべきだ。隣に行って、鈴音の顔を見るべきだ。
だが——「リリのことを知っている」と明かすことになる。鈴音が自分から話すまで待つと決めたのに。
どこまでが優しさで、どこからが臆病なのか。
わからなかった。




