第56話 味がしない
変化は——じわりと進んでいった。
鈴音の味噌汁が、止まった。
八十九点から上がらない。毎朝持ってくるが、八十八点に下がることすらあった。味噌の量がブレている。出汁の香りが弱い。迷いが、味に出ている。
食事中の鑑定も——精度が落ちた。
「今日の出汁、どうだ」
「……昆布と鰹の一番出汁です」
それだけ。以前なら「昆布の比率を三割上げていますね」「鰹節の厚みが昨日より薄い」まで言い当てていたのに——今は構成を述べるだけで、微細な差に言及しなくなった。
そして——八月末のある日。
◇
夕食。鶏の南蛮漬け。
鈴音が一口食べて——三秒の沈黙の後。
「……美味しい、です」
いつもの言葉。だが——小指が跳ねなかった。体の末端が、何も反応していない。
「鈴音」
「……はい」
「今日の南蛮漬け、酢の量変えたの気づいたか」
「……いいえ」
——嘘じゃない。本当に気づいていない。
いつもの鈴音なら、酢の種類まで言い当てる。今日は米酢からリンゴ酢に変えたのに——何も感じていない。
「鈴音。最近、味——」
「……大丈夫です」
遮られた。声は平静だったが、箸を持つ手が——震えていた。
「大丈夫じゃないだろ。食事中に体が全然反応してないぞ。いつもの——」
「……みなとさん。大丈夫です。……少し、疲れているだけです」
嘘だ。
鈴音は嘘をつくのが下手だ。耳が赤くなるか、指先が震えるか、何かしら体に出る。今は——指が震えている。
だが——踏み込めなかった。鈴音が「大丈夫」と言っている以上、それ以上聞くのは——壁を越えることになる。
◇
壁の向こうから——リリの配信の準備音が聞こえなかった。
今夜は配信予定日のはずだ。毎週水曜と土曜。今日は水曜。
スマホでチャンネルを確認した。
【おしらせ】
たいちょうが すぐれないため
こんやの はいしんは おやすみします。
もうしわけございません。
体調が優れない。
配信を休むのは——あの一週間以来だ。柚葉が来た時の、あの苦しかった一週間。
壁の向こうは静かだった。パソコンの音も、椅子の軋みもない。
ただ——微かに、水の音がした。
台所か。洗面所か。
水を飲んでいるのか、それとも——泣いているのか。
壁に手を当てた。五十センチ先に鈴音がいる。でも——ドアを叩くべきかどうか、わからなかった。
「大丈夫です」と言った彼女の言葉を、信じるべきなのか。
それとも——信じないことが、正しいのか。
答えは出ないまま、壁に額を押し当てた。
冷たかった。




