第55話 侵食
コラボ配信の反響は大きかった。
リリの登録者数が一夜で三万人増えた。アリアの拡散力は桁違いだ。「鬼舌のリリが語彙力壊れた回」の切り抜きが百万再生を超えた。
それ自体は——いいことのはずだった。
だが——鈴音に、変化が起き始めていた。
◇
八月下旬。
キララが——俺の部屋に来た。
「湊くーん! 差し入れー!」
アポなし。チャイムを連打して、ドアの前で手を振っている。手には紙袋。有名パティスリーのロゴが入っている。
「……お前、なんで家知ってんだ」
「相馬くんに聞いたー!」
健太ーーーー。
仕方なく上がらせた。リビングのちゃぶ台にキララが座る。
「きれいにしてるね! 一人暮らしなのにすごい!」
「二人分使ってるから」
「二人分? あ、氷室さん? 氷室さんもここに住んでるの?」
「隣に住んでる」
「ふーん。仲いいんだね!」
紙袋の中身はケーキだった。チョコレートのムースケーキ。三つ。
「一つは湊くんの、一つは私の、一つは氷室さんの分!」
三つ。鈴音の分まで買ってきている。気遣いができるやつだ。ただ——問題は、その気遣いの距離感が「友達」なのか「それ以上」なのかがわからないことだ。
キララがケーキを食べながら、部屋を見回した。
「あ、食器が二セットある。お揃い?」
「違う。たまたま同じのが安かったから」
「嘘だー。茶碗の柄まで揃ってるじゃん」
鋭い。この女、能天気に見えて観察力がある。
ケーキを食べ終わった頃、キララがふと黙った。
「……湊くんってさ」
「ん」
「……誰にでも優しいよね」
「そうでもない」
「そうだよ。私がいきなり来ても追い返さないし。学食で一人で食べてる人見つけたらさりげなく声かけるし。……あのね、私ね。そういうの——助かるんだ」
声のトーンが変わった。いつもの甲高いテンションではなく——低く、静かな声。
「私、友達多いけどさ。みんな『キララ』としか付き合ってくれないの。明るくて楽しいキララ。ノリがいいキララ。——でも、泣いてるキララとか、黙ってるキララのことは、誰も見てくれない」
「……」
「湊くんは、見てくれる気がするんだよね。だから——居心地がいいの」
困った。
嬉しくない。——いや、嬉しいのかもしれないが、タイミングが最悪だ。
「キララ。俺は——」
「あ、ごめんね! 重い話しちゃった! 忘れて忘れて! ——じゃあそろそろ帰るね! またー!」
嵐のように去っていった。ケーキの箱と紙袋だけが残った。
鈴音の分のケーキが、テーブルの上にある。
◇
三十分後。鈴音が来た。
合鍵で入ってきた。いつもの時間。
「……おじゃまします」
「おかえり」
鈴音はリビングに入って——テーブルの上のケーキを見た。
見慣れないパティスリーの箱。中には、一つだけ残ったチョコレートのムースケーキ。
「……そのケーキは」
「キララが差し入れに来た。鈴音の分もあるぞ」
鈴音の表情は変わらなかった。
だが——ケーキの箱を手に取った時、指先がわずかに震えていた。
「……星野さんが。……ここに、来たんですか」
「ああ。さっき」
「……」
鈴音はケーキの箱を開けた。チョコレートのムースケーキを一口食べた。
「……製菓専門店のものですね。カカオの産地はエクアドル。ビターチョコレートとミルクチョコレートの二層構造で、ムースの口溶けは——」
分析が始まった。だが——いつもの鑑定モードではなかった。声に温度がない。機械的に味を分解しているだけで、「美味しい」の気配がない。
「鈴音。美味いか?」
「……技術的には優れています。素材の選択も適切です」
「聞いたのは、美味いかどうかだ」
沈黙。
「……わかりません」
「わからない?」
「……味は、わかります。でも——美味しいかどうかが、わかりません」
箸で——いや、フォークを置いた。ケーキは半分残っていた。
鈴音がケーキを残す。初めてのことだった。
「……ごちそうさまでした」
「鈴音——」
「……夕飯の準備、しましょう」
それ以上何も言わずに、台所に立った。
ケーキの残り半分が、テーブルの上で溶け始めていた。




