第52話 スプーン事件
夏休みが始まっても大学には出入りする用事があった。図書館での自習と、ゼミの課題。
八月五日。図書館で課題をやっていたら——キララがやってきた。
「湊くーん! 偶然! 私も課題やりに来たの! 隣座ってもいい?」
偶然ではない。三日連続で俺を見つけている。こいつには追跡能力がある。
「好きにしろ」
「やったー!」
キララが隣に座った。教科書を広げたが——三分で飽きてスマホをいじり始めた。
「ねー湊くん。このスイーツの新作見た? めっちゃ美味しそう! 今度一緒に行かない?」
「パス」
「えー! なんでー!」
「課題」
「課題なんてそのうち終わるよ! あ、そうだ。湊くん料理上手いんでしょ? 今度作ってよー。ナポリタンとか!」
「……考えとく」
俺の料理を——他の女に作る。
その会話を、図書館の入り口で聞いている人間がいることに、俺は気づかなかった。
◇
昼休み。学食。
健太と俺とキララ。三人でテーブルを囲んでいた。キララが勝手に合流してきた。
「相馬くんも一緒にご飯食べよー!」
「え、俺も? ありがとう星野さん」
「キララでいいよー!」
三分で健太とも打ち解けた。コミュ力お化けの本領発揮だ。
俺はカツ丼を食べていた。キララはパスタ。健太はラーメン。
キララが俺のカツ丼を覗き込んだ。
「あ、それ美味しそう! 一口ちょうだい!」
「自分の食え」
「一口だけー!」
スプーン——パスタを食べていたフォークではなく、わざわざ備え付けのスプーンを取って——俺のカツ丼に突っ込んできた。
その瞬間。
「……失礼します」
声がした。
振り向くと——鈴音が、トレイを持って立っていた。
いつもの無表情。いつもの静かな声。
だが——右手に持っているスプーンが。
曲がっていた。
金属のスプーンが、鈴音の握力で——歪んでいた。
「……お、氷室さん! こーんにちはー! 一緒に食べよう! 座って座って!」
キララが手を振っている。鈴音はキララを見て——それから俺を見た。
俺のカツ丼に突っ込まれたキララのスプーンを見た。
「……いえ。自分の席で、食べます」
「えー、もったいなーい! 一緒のほうが楽しいじゃん!」
「……楽しいかどうかは、人によります」
声が冷たかった。無表情は変わらないが——声のトーンが、リリの毒舌に一瞬だけ近づいた。
鈴音はそのまま、学食の隅のテーブルに一人で座った。俺に背中を向ける位置。
——まずい。
「キララ、俺先帰るわ」
「え、もう? まだカツ丼残ってるじゃん!」
トレイを片付けて、鈴音の席に行った。
「鈴音」
「……何ですか」
「隣、座っていいか」
「……ご自由に」
座った。鈴音のトレイの上には、日替わり定食がほとんど手つかずで残っていた。
「食べないのか」
「……食欲が、ありません」
嘘だ。鈴音に食欲がないことなんてあり得ない。あの化け物級の食欲が消失するのは——精神的な要因だけだ。
鈴音の右手を見た。曲がったスプーンを、まだ握っている。
「……スプーン、曲がってるぞ」
「……知っています」
「返却する時に怒られるぞ」
「……力の加減を、間違えました」
間違えてない。明確な意思をもって曲げている。
けれどそれを指摘する勇気は、さすがになかった。
◇
帰り道。二人で歩いた。
鈴音は黙っていた。俺も黙っていた。
アパートの階段を上がる。鈴音が自分の部屋に入ろうとした。
「鈴音」
「……はい」
「今日の夕飯、何がいい」
鈴音は——立ち止まった。
「……みなとさん」
「ん」
「……星野さんに、料理を作る約束をしましたか」
——聞いていたのか。図書館での会話を。
「してない。考えとくって言っただけだ」
「……考えとく、は。……みなとさんの場合、だいたい作ることになります」
鋭い。
「……鈴音。俺が料理作るのは——」
「……わかっています。……みなとさんは面倒見がいいから。……誰にでも作ってしまう」
その声は——怒りではなかった。
諦めでもなかった。
ただ——寂しさだった。
「……今日の夕飯は。……冷やし茶漬けが食べたいです。夏らしいものを」
「了解」
ドアが閉まった。
冷やし茶漬け。シンプルな料理だ。仕込みは少ない。
だが——鈴音がリクエストを出す時は、いつも何かの意味がある。
冷やし茶漬け。冷たくて、シンプルで、余計なものが何もない。
——「余計な人間が入ってこない、二人だけの食卓」を求めている。
たぶん、そういうことだった。




