第51話 太陽が来た
夏休み二日目。
包丁を買いに行く約束をしていた。駅前の調理器具専門店。鈴音と二人で。
午前十時に待ち合わせて、アパートの階段を下りた。八月の太陽が目に刺さる。鈴音はいつものパーカーではなく、薄手のカーディガンに白のカットソー。日傘を差している。
専門店に入ると、壁一面に包丁が並んでいた。鈴音の目が——瞳孔全開になった。食材ではなく道具を見る時のモードは初めて見るが、集中力は変わらないらしい。
「……この三徳包丁。刃渡り十六センチ。ステンレスの鋼材は——」
「鈴音。握ってみろ。フィーリングが大事だ」
店員に許可をもらって、数本試し握りをさせた。鈴音の手は小さい。標準の十八センチは長すぎる。十六センチの三徳包丁がちょうどよかった。
「……これ」
「柄の感触はどうだ」
「……しっくりきます。……手になじむ、というのは——こういうことですか」
「そういうことだ」
購入した。鈴音が財布を出そうとしたが、俺が先に払った。
「……待ってください。私が使うものですから——」
「いいよ。出世払いで」
「……出世払い」
「味噌汁が九十五点を超えたら、返してもらう」
「……九十五点」
高いハードルを設定した。だが鈴音の目に——微かな闘志が灯った。
◇
専門店を出て、駅前の通りを歩いていた時だった。
「——湊くーーーーーーーーん!!」
背後から弾丸のような声がした。
振り向く前に——背中にぶつかってきた。衝撃。軽い体が、後ろから抱きつくように——
「やっほー! 湊くん! 夏休みなのにお出かけ? 誰と? え、女の子? 誰???」
明るい茶髪。流行のメイク。花柄のワンピース。日焼け止めの甘い匂い。
星野キララ。同じ大学の同級生。コミュニケーション能力の化身。どんな人間とも三分で友達になれる超陽キャ。
——なぜここにいる。
「キ、キララ。離れろ。暑い」
「えー、やだー。久しぶりじゃん! 夏休み入ってから会ってなかったし!」
離れない。腕が背中に回っている。距離感がおかしい。いつもこうだ。この女は物理的な距離の概念を搭載していない。
鈴音を見た。
鈴音は——無表情だった。完全な無表情。
ただし——右手が、包丁の入った箱を握りしめている。指先が白い。箱が軋んでいる。
まずい。
「キララ。離れてくれ。隣に人がいる」
「え? あ、ごめんね! ——あれ、あなた、もしかして氷室さん? 人文の!」
キララが鈴音に向き直った。太陽のような笑顔。
「私、星野キララ! 経済学部の。湊くんとは同じゼミなの! よろしくー!」
手を差し出した。
鈴音は——その手を、三秒見つめた。
「……氷室、鈴音です」
手を握った。形だけ。すぐに離した。
キララは気にしていない。もう次の話題に移っている。
「ねね、二人でお買い物? 何買ったの? ——あ、包丁!? え、すごい! 料理するの氷室さん?」
「……はい」
「いいなー! 私全然できないんだよね料理! 湊くんは上手いって聞いたけど、氷室さんも?」
「……始めたばかり、です」
「へー! じゃあ湊くんに教えてもらってるんだ! いいなー羨ましー!」
羨ましい。その一言で——鈴音の指先が、さらに強く箱を握った。
キララは気づいていない。「羨ましい」は社交辞令で、深い意味はないのだろう。だが鈴音にとっては——その一言が刺さっている。
「羨ましい」は「私もそうなりたい」の裏返しで、「湊くんに構ってほしい」の表明だと——鈴音の繊細なセンサーが読み取ってしまう。
「じゃあまた学校でね! 湊くん、今度うちのサークルの飲みにも来てよ! 氷室さんも!」
「……」
「あ、氷室さん人見知り? 大丈夫大丈夫! 私がフォローするから! じゃあねー!」
嵐のように去っていった。茶髪が人混みの中に消えていく。
残されたのは、八月の熱気と、包丁の箱を握りしめる鈴音と、俺。
「……鈴音」
「……はい」
「あいつは、ああいうやつだ。誰にでもああだから」
「……わかっています」
声はいつも通り。表情も変わらない。
だが——帰り道、鈴音は俺の二十センチ隣を歩いていた。いつもの三十センチより、十センチ近い。距離が縮まっている。




