第47話 初めての外食——イタリアン
店は、大学から三駅離れた商店街にある小さなイタリアンにした。
チェーン店ではない。個人経営で、テーブルが八つ。窓際の壁に蔦が絡んでいて、外壁はレンガ風。中に入ると、オリーブオイルとニンニクの香りがふわりと迎えてくれた。
ネットの口コミで調べた。「素材を活かしたシンプルな調理。手打ちパスタ。ワインリストは少ないが一本ずつ厳選」。鈴音の舌を考えると、凝った創作料理よりも素材勝負の店のほうがいい。
土曜日の昼。
鈴音は——パーカーではなかった。
白いブラウスに、紺のスカート。髪を片方だけ耳にかけて、小さなイヤリングをしていた。銀色の、シンプルなやつ。
俺が何も言えずに固まっていると、鈴音が不安そうに——いや、無表情のままだが耳だけが赤くなって——口を開いた。
「……おかしい、ですか」
「いや。いい。すごくいい」
「……そうですか」
視線を外した。俺も外した。靴紐を結び直すふりをした。結ぶ必要のない紐を。
◇
テーブルに着いた。メニューを二人で覗き込む。
鈴音の目が——輝いていた。いつもの鑑定モードとは違う。純粋に——楽しそうだった。
「……カプレーゼ。トマトとモッツァレラ。……シンプルですね」
「前菜はこれにしようか」
「……あと——手打ちのタリアテッレ。……きのこのクリームソース」
「じゃあ俺はアクアパッツァにする」
注文を済ませた。
前菜のカプレーゼが来た。鈴音は——トマトを一切れ、フォークで刺して口に入れた。
目を閉じた。三秒。
「……このトマト、甘みが強い。水耕栽培ではなく、露地もの。……皮が少し厚いから、完熟の手前で収穫して追熟させている。……オリーブオイルはエクストラバージン、たぶんイタリア南部産」
——出た。フルスペック鑑定。
俺は黙って聞いていた。鈴音がレストランで食事をしている姿を見るのは初めてだった。いつもは俺の部屋の六畳間だ。
この場所にいる鈴音は——別人のように見えた。
背筋が伸びている。ナプキンの使い方が完璧だ。フォークとナイフの所作が、フレンチのフルコースを何百回と食べてきた人間のものだ。
——そうだ。彼女は元々こちら側の人間だった。高級レストランで食事をする「お嬢様」の世界の住人だ。
ボロアパートの六畳間で唐揚げを食べている姿に慣れすぎていて、忘れかけていた。
タリアテッレが来た。鈴音は一口食べて——六秒の沈黙。
「……パスタの茹で加減、完璧です。アルデンテのギリギリを突いて、余熱で火が通る計算。……きのこは三種類混ぜています。エリンギ、マイタケ、ポルチーニの戻し汁。……クリームソースは生クリームだけではなく、ペコリーノチーズを削り入れている」
「すごいな。一口で全部わかるのか」
「……ずっと、食べてきただけです」
またあの言葉。「食べてきただけ」。
でも今日は——その言葉に、以前ほどの悲しみは乗っていなかった。「ただ食べるだけ」ではない自分になり始めていることを、鈴音は知っている。百個のおにぎりと七十五点の味噌汁が証拠だ。
◇
デザート。ティラミス。
鈴音が一口食べて——七秒の沈黙。過去最長記録に並ぶ。
「……マスカルポーネの質がいい。……エスプレッソの苦味とリキュールのバランスが——」
「鈴音」
「……はい」
「分析しなくていいから。美味いなら美味いでいい」
鈴音が、箸——いやスプーンを止めた。俺を見た。
「……美味しい、です」
「それでいい」
「……でも分析したいです」
「好きにしろ」
「……マスカルポーネの質が——」
結局、フルスペック鑑定が再開された。もう止まらないらしい。この女の舌にオフスイッチはないのだ。
◇
店を出た。商店街を歩く。午後の光が柔らかい。梅雨が明けかけている。
「……みなとさん」
「ん」
「……楽しかった、です」
「そうか」
「……誰かと外で食べたのは、久しぶりでした。……家を出てから、ずっと一人でばかり外食していたので」
「一人で、美味しい店を回ってたのか?」
「……はい。レビューのために。でも、誰かと一緒に、ただ食事を楽しむためだけにお店に入ったのは——実は、あれから初めてでした」
誰かと会話を交わしながら外食することはなかった。コミュニケーションが苦手な鈴音にとって、誰かを誘って飲食店で食事を楽しむというだけのことが——高い壁だったのだろう。
「また行こう」
「……はい」
「鈴音が行きたい店があったら、言ってくれ」
「……みなとさんと一緒なら、言えます。……一人だと、無理ですけど」
隣を歩いている。肩が触れそうな距離。ブラウスの白が、午後の日差しに透けている。
——ただの隣人と飯係。
もう、誰がどう見てもそんな言い訳は通用しないのだが。
名前はまだつけない。つけないまま、商店街を二人で歩いた。




