第44話 テスト勉強と、膝の距離
七月中旬。期末テスト期間に突入した。
柚葉の騒動が過ぎ去り、日常は——以前より少しだけ形を変えて、戻ってきた。
変わったこと。
一つ。鈴音が朝ごはんの味噌汁を自分で持ってくるようになった。六十五点から始まった味噌汁は、五日目で七十点になり、一週間で七十五点に到達した。俺の予測通りだ。舌が良い人間は上達が速い。自分で味見をして修正できるから。
二つ。ちゃぶ台でのS字配置が完全にL字配置に移行した。向かい合うのではなく、角を挟んで九十度。距離は三十センチ。
三つ。鈴音が俺の実家のことを知っている前提で会話するようになった。
「……みなとさん、今日の炒め物。みりんの量が料亭風と言いますか」
「それは褒めてるのか」
「……美味しいです」
四つ。「美味しい」を口にする頻度が上がった。以前は体の末端でしか表現しなかったのに、今は声に出す。不器用ながら。
◇
テスト勉強は毎晩、夕食後にちゃぶ台で行った。
ノートと教科書を広げて、二人で黙々と。鈴音は集中すると微動だにしなくなる。ページをめくる音だけが一定のリズムを刻む。
俺はマクロ経済学のIS-LM分析で死にかけていた。
「……みなとさん」
「ん」
「……IS曲線の導出は、財市場の均衡条件から始めます。Y = C + I + G の——」
「待って、Cが消費でIが投資でGが……」
「……政府支出です。……ここに消費関数C = a + b(Y - T)を代入して——」
鈴音の説明は明快だった。無駄がない。必要な情報だけを最短ルートで伝える。リリのレビューと同じ構造だ。論点を整理して、結論を示して、根拠を添える。
「お前、頭いいな」
「……いいえ。……暗記が得意なだけです」
「暗記が得意なのは頭がいいっていうんだ」
「……」
耳が赤い。褒められ慣れていないのはそろそろどうにかしてほしい。
◇
二十三時。テスト勉強を切り上げようとした時、鈴音がうとうとしていた。
こくり。こくり。首が前に倒れかけている。教科書のページに鼻先が触れそうだ。
「鈴音。寝るなら帰って寝ろ」
「……起きてます」
嘘だ。瞼が半分閉じている。
「寝てるだろ」
「……起きて——」
こくん。
鈴音が、俺の肩に寄りかかった。
L字配置の利点(あるいは欠点)が、物理的に発生した。角度が近いから——寝落ちると、距離ゼロになる。
黒い髪が、俺の肩から腕に流れた。シャンプーの匂い。同じ匂い。重力に従って落ちる髪が、俺のTシャツの袖に触れている。
呼吸が規則的になっている。完全に寝た。
起こすべきだろう。起こして、帰って寝ろと言うべきだ。
起こせなかった。
幸い、教科書はまだ開いている。IS-LM分析のページ。勉強するフリをしながら、実際は一行も頭に入らなかった。
鈴音は——三十分ほど、俺の肩で寝ていた。
起きた時は——一瞬で状況を把握して、声も出さずに体を離した。耳だけが爆発的に赤かった。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
肩が、まだ温かかった。




