第42話 六十五点の味噌汁
翌朝。
鍵が回る音。
「……おはようございます」
鈴音が入ってきた。両手で——鍋を持っていた。
片手鍋。鈴音の部屋にあった小さな鍋だ。蓋の隙間から湯気が漏れている。
「……味噌汁、です」
鈴音が——自分で作った味噌汁を、持ってきた。
テーブルに鍋を置く。蓋を取る。
味噌汁だった。具は豆腐とわかめ。一番シンプルで、一番ごまかしが効かない組み合わせ。
見た目は——悪くなかった。味噌の色も、出汁の透明感も、ちゃんとしている。
お椀をよそった。
一口飲んだ。
味噌が——少し多い。出汁の香りが味噌に負けている。昨日の壁越しの出汁は「薄い」と言っていたから、それを味噌で補おうとしたのだろう。結果として、味噌が勝ちすぎている。
豆腐は少し大きい。火の通りが均一ではない。外側は崩れかけているのに、中心がまだ固い。温度管理が追いついていない。
わかめは戻しすぎだ。ぬるぬるが出ている。水で戻すのは三分で充分なのに、たぶん十分くらい浸けていた。
技術的に見れば——六十五点。赤点は免れるが、手放しで褒められる出来ではない。
二口目。
三口目。
四口目で、椀が空になった。
鈴音は——目を見開いていた。
「……全部、飲んだんですか」
「うん」
「……残してもよかったのに」
「残す理由がない」
「……でも——」
「鈴音。正直にフィードバックしていいか」
「……はい」
「味噌が多い。出汁の風味が消えてる。もう少し出汁を濃くするか、味噌を減らすか。豆腐は崩れてるから、もう少し小さく切って、火を入れすぎるな。わかめは戻しすぎ。三分でいい」
容赦なく言った。
鈴音は——メモを取り出した。どこから出した。パーカーのポケットからだ。百均のメモ帳とボールペン。
俺の言葉を一言一句書き取っている。あの不器用な字で。
「……味噌、減らす。豆腐、小さく。わかめ、三分」
「あと——出汁。昨日の引き方は基本的に合ってる。ただ、昆布の水出しの時間をもう少し長くしてもいい。一晩置けると理想的だ。冷蔵庫に入れとけば劣化しない」
「……一晩」
書いている。一生懸命。
「次はもっとうまくなる」
「……根拠は、ありますか」
「ある。お前は百個おにぎりを握って上達した。同じことを味噌汁でやれば、たぶん二十杯くらいで七十五点まで行く」
「……七十五点」
「今日は六十五点だ」
「……六十五」
鈴音の表情が——ぴくり、と動いた。
「……六十五点って、みなとさんの採点基準では」
「料亭基準だと赤点。家庭料理基準だと合格」
「……合格」
「飲めないわけじゃないし、出汁をちゃんと引いてる時点で、そのへんのインスタント味噌汁よりは上だ」
鈴音はメモ帳を閉じた。パーカーのポケットに戻した。
それから——鍋のほうをちらりと見た。まだ味噌汁が残っている。
「……みなとさん。おかわりは」
「飲むよ」
もう一杯よそった。味噌が多くて、豆腐が崩れていて、わかめがぬるっとしている、六十五点の味噌汁を。
飲み干した。
六十五点は——百点ではないけれど。
百個のおにぎりと同じだ。この味噌汁にも、絆創膏と失敗と——鈴音が初めて「作る側」に回った決意が詰まっている。
点数では測れないものが、ある。
「ごちそうさま」
「……お粗末さまです」
——出た。初めて鈴音のほうから「お粗末さまです」が出た。
俺がいつも言っている台詞を、作った本人が言い返してきた。
「鈴音。それ、俺の台詞だぞ」
「……みなとさんがいつも言っているので。……料理を作った人が言う言葉だと」
「そうだよ。だから——」
——だから、お前は今、「作る側」になったんだ。
言わなかった。言わなくても——鈴音の耳が、一週間ぶりに赤くなっていたから。




