第41話 壁越しの出汁指導
鈴音が料理を覚えようとしていることは——もう隠すまでもなかった。
毎晩、壁の向こうから音がする。以前のような悲壮な失敗音ではなく、ゆっくりとした——確認するような音。水の音。卵を割る音。何かを混ぜる音。
火曜の夜のことだった。
壁越しに——鈴音の声が聞こえた。
「……出汁って、どのくらい水を入れるんですか」
独り言かと思った。だが妙にはっきり聞こえる。
まさか。
「……みなとさん。聞こえていますか」
壁に向かって話しかけている。壁が薄いのを利用して、隣の俺に質問している。
——この女。
「聞こえてるよ」
「……昆布は、どのくらいの大きさですか」
「手のひらくらい。十センチ四方で充分」
「……十センチ」
壁越しに、はさみで何かを切る音がした。
「水は何ミリですか」
「五百で。昆布入れたら三十分以上置いてから火にかけろ。水出しが大事だから」
「……三十分」
タイマーをセットする電子音が聞こえた。
しばらく沈黙。三十分間。
俺は自分の部屋で、洗い物を済ませ、明日の講義の準備をしていた。壁の向こうのタイマーが鳴るのを——なぜか、待っている自分がいた。
ピピピ。タイマーが鳴った。
「……火にかけます」
「弱火で。沸騰させるな。泡がふつふつ出始めたら昆布を引き揚げろ」
「……ふつふつ」
「大きくボコボコじゃないぞ。小さい泡がゆっくり上がってくるくらい」
「……小さい泡」
しばらく静かになった。鈴音が鍋の中を凝視しているのだろう。あの瞳孔が開いた目で——泡の大きさを判定している。
「……引き揚げ、ました」
「音で教えてくれ。鰹節はあるか?」
「……スーパーで買いました。どのくらい入れますか」
「ひとつかみ。手に軽く握れるくらい。入れたらすぐ火を止めろ」
「……止めました」
「そのまま触るな。二分待て。鰹節が沈んだら布巾かざるで濾せ」
布巾を絞る音。液体がボウルに落ちる音。
「……できた……と、思います」
「味見しろ。お前の舌がいちばん正確だ」
沈黙。二秒。
「……あ」
「?」
「……出汁だ」
壁越しの声が、震えていた。
「……これが。みなとさんが毎日引いている出汁。……こういう味、だったんですね。……自分で作ると」
「どう?」
「……みなとさんのより、薄いです。でも——」
「でも?」
「……自分で作った出汁は、自分で作ったって、わかります」
その声は——穏やかだった。
俺はベッドの上で、壁にもたれたまま天井を見ていた。壁を挟んで五十センチ先に鈴音がいるのだろう。彼女も——壁にもたれているかもしれない。
「明日、その出汁で味噌汁作ってみろ」
「……はい」
「できたら持って来い。俺が味見する」
「……みなとさんに、味見してもらうんですか」
「普通逆だろって思うだろうけど——お前に作ってもらった飯の味見がしたい。つまりそういうことだ」
沈黙。
長い沈黙。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
壁の向こうで——ベッドのスプリングが軋む音がした。
そうか。同じタイミングで寝るのか。
目を閉じた。壁越しの出汁指導。世界一距離の近い料理教室。
壁一枚で繋がっている。この距離が——今はちょうどいいのかもしれなかった。




