第40話 もう一度、二人で
鈴音が戻ってきた朝。
味噌汁の出汁は確かに沸騰させてしまったが——鈴音は何も言わなかった。
いつもなら「昆布を引き揚げるタイミングが二十秒遅い」くらいのことを指摘するのに。今日は一口飲んで、三秒黙って、「……美味しい、です」とだけ言った。
甘い。甘い評価だ。えぐみが出ているのは俺が一番わかっている。
でも——今日は、それでいい。
◇
朝食のあと、買い出しに行った。
二人で。
駅前のスーパー。鈴音が一週間ぶりに俺の横に立っている。
以前の鑑定モードは——少し、変わっていた。食材を手に取る動きに迷いがある。いつもなら即座に「これは二日前の入荷です」と断じるのに、今日は手に取ったにんじんを三秒見つめてから——こちらに差し出した。
「……これ、たぶんいいものだと思います。……でも、自信がないです」
自信がない。初めて聞いた言葉だった。鈴音の舌と目は完璧だ。自信がないのではなく——自分の判断に怯えている。
柚葉に指摘されたことが、まだ尾を引いている。「食べるだけ」の自分が、食材を選ぶ資格があるのか——という迷い。
「いいよ。それにしよう」
「……本当に?」
「鈴音が選んだやつは、一度も外れたことがない」
鈴音の指先が——にんじんを握りしめた。それからゆっくり離して、丁寧にカゴに入れた。
「……ありがとう、ございます」
一つずつ。一つずつ取り戻していく。時間がかかるだろう。でも——焦らない。
◇
昼食は二人で作った。いつものように。
鈴音が食材を洗い、俺が切る。鈴音が皿を出し、俺が盛る。
だが一つだけ変わっていた。
鈴音が、味噌汁の味見をした。
いつもは俺が完成させた味噌汁を食卓で飲む。けれど今日は——仕込みの段階で、お椀に少しだけ掬って、唇を付けた。
「……もう少し、味噌を加えたほうがいいかもしれません」
——来た。
あの鑑定モードだ。食材を見る時ではなく、味を見る時の。瞳孔が開いて、舌の上で出汁の構成を読み取っている。
「どのくらい?」
「……小さじ半分くらい。……今日の出汁は少しえぐみがあるので、味噌で包んだほうが丸くなります」
えぐみに気づいていた。やっぱり。
言わなかったのではなく——言えなかったのだ。今朝は。まだ、自分の「食べる側の力」を使っていいかどうか、迷っていたから。
今——一歩、踏み出した。
小さじ半分の味噌を加えた。もう一度鈴音が味見する。
「……はい。これがいいです」
その一言で——味噌汁が完成した。
俺の出汁と、鈴音の舌。
二人で一つの味噌汁を作った。初めて。
◇
食卓。味噌汁を一口飲んだ。
うまい。朝のえぐみが消えている。味噌がちょうどよく出汁の角を取って、丸い味になっている。
「鈴音」
「……はい」
「この味噌汁、うまい」
「……私は味見しただけです」
「その味見が全部なんだよ。俺一人じゃ、今日の出汁のえぐみに気づいても、味噌でリカバリーする発想は出なかった。追い鰹で消すか、出汁を引き直すかしかない」
「……」
「お前の舌がないと、この味噌汁は完成しなかった」
鈴音は味噌汁の椀を両手で包んだ。湯気が顔にかかって、前髪が揺れた。
「……柚葉さんが、言っていました」
「何を」
「……みなとさんの料理は、私が食べて初めて完成するって」
「……聞こえてたか」
「……壁、薄いですから」
壁越しに聞いていたこと——お互い様だった。
鈴音の唇が——かすかに、微かに。上がった。
笑った。
今度は気のせいじゃない。確かに見た。ほんの一瞬。三ミリくらい。
でも確かに——鈴音が、笑った。




