第39話 百回目のおにぎり
土曜日の朝。
目が覚めて、いつも通り台所に立った。朝食を作る。一人分。
味噌汁の出汁を引いている最中に——チャイムが鳴った。
合鍵を持っているのに、チャイムを押した。
心臓が、跳ねた。
ドアを開けた。
鈴音がいた。
一週間ぶりだった。
パーカーのフードは被っていない。黒い髪がそのまま肩に落ちている。顔色は少し良くなっていた。以前ほど頬がこけてはいない。
左手には絆創膏が——昨日より増えていた。五枚。指先が絆創膏だらけで、握り拳を作ると白い花が咲いたみたいだった。
右手には——ラップに包まれた何かを持っていた。
「……おはようございます」
「おはよう」
「……みなとさん。……あの」
言葉が詰まっている。いつもの鈴音だ。でもいつもと違う。いつもは言葉を探して沈黙するのだが、今日は——言葉は見つかっているのに、声にならないでいる。
「……一週間、すみませんでした」
「いいよ。別に」
「……別にじゃ、ないです」
そう言って——右手を差し出した。
ラップに包まれたもの。白い。三角形。
おにぎりだった。
二つ。小さな三角形のおにぎり。ラップに包まれて、不揃いで、片方は少し崩れかけている。海苔が巻いてあるが、大きさが左右で違う。
「……私が。……作りました」
声が震えていた。
受け取った。ラップ越しに——おにぎりが温かかった。まだ出来たてだ。
「……百個くらい、練習しました」
「百個?」
「……最初は、形にもなりませんでした。……ご飯が手について、ぐちゃぐちゃになって。……塩加減もわからなくて。……海苔も上手く巻けなくて」
左手の絆創膏を見た。包丁で切ったのだろう。海苔を切ろうとして。あるいは具材の何かを切ろうとして。
「……九十八個目で、やっと形になりました。……九十九個目で、海苔がまっすぐ巻けました。……百個目が、それです」
百個。一週間で百個。毎晩、壁越しに聞こえていた音は——おにぎりを握る練習だったのか。
卵の音やフライパンの音は、別の料理にも挑戦していたのかもしれない。失敗して、捨てて。また挑戦して。
百回の失敗と、百回の——手の傷。
「……中身は。……梅干しです。……梅干しなら、失敗しにくいと思って。……でも——」
鈴音の声が止まった。目が伏せられた。
「……美味しくない、かもしれません。……みなとさんの舌に合わないかもしれません。……私は料理ができないから。……和泉さんみたいに——」
「食べていいか」
遮った。
ラップを剥がした。おにぎりを手に取った。まだ温かい。形はいびつだ。米粒が少しはみ出しているところがある。海苔のサイズが左右で違う。握り方にムラがある——一方は固く、もう一方は柔らかい。
一口目。
噛んだ。
塩気が——多い。握る手が震えていたのだろう。塩が均一ではない。一口目は塩辛く、たぶん二口目は薄い。
米の炊き方も少し硬い。水加減を間違えている。芯が残っているわけではないが、粘りが足りない。
梅干しは——普通の梅干しだった。スーパーで買った、既製品の。
技術的に言えば、全てが未熟だった。プロの目からは到底合格点ではない。柚葉が見たら「やり直し」と言うだろう。親父なら「話にならん」と叩き返すだろう。
二口目を食べた。
——うまい。
うまかった。
塩加減がバラバラで、形が不揃いで、海苔が曲がっていて。百回の失敗と五枚の絆創膏の上に辛うじて成り立っている、でたらめなおにぎりが——うまかった。
三口目で、一つ目がなくなった。
二つ目を取った。こちらは少し崩れかけている。握りが弱かったほうだ。口に入れると、ほろりと崩れた。
米が、口の中で解けていく。塩と、梅の酸味と、ほんのわずかな——手のぬくもり。
全部食べた。
ラップの上に、米粒が一つだけ残っていた。それも指で拾って口に入れた。
「……ごちそうさま」
鈴音を見た。
鈴音は——泣いていた。
声も出さず、表情も変えず。ただ——目から涙が落ちていた。ぽたぽたと。無表情のまま泣いている。
「……食べて、くれた」
「うまかった」
「……嘘、です」
「嘘じゃない」
「……嘘です。塩が多すぎます。米が硬いです。海苔の大きさが違います。形が——」
「全部わかってる。全部わかった上で、うまかった」
鈴音の涙が止まらなかった。
無表情が崩れていた。唇が、かすかに歪んでいた。泣き方すら知らない人間が、初めて泣き方を覚えたような——不器用な顔だった。
「……私、来週から。……また、来てもいいですか」
「来週からじゃなくていい。今日から来い」
「……」
「朝飯、まだ作ってる途中だったんだ。味噌汁の出汁が止まってる」
鈴音は——手の甲で涙を拭った。絆創膏だらけの手で。
「……おじゃまします」
「おかえり」
六畳間に、二人の影が戻った。
味噌汁の出汁は——沸騰していた。慌てて火を止めた。少しえぐみが出てしまうかもしれない。
でも——そんなことは、どうでもよかった。




