第38話 鈴音の台所
柚葉が帰った翌日。水曜日の夜。
壁の向こうから——異様な音がした。
ガチャン。何かが落ちる音。金属が床を叩く音。
続いて——じゅう、という音。何かが焼ける音。そして、すぐに——消えた。火を止めた音。
また——ガチャン。今度は水の音。蛇口を開く音。何かを洗っている。
そして——沈黙。
十分後。同じ音が繰り返された。金属の音、火の音、水の音。そして沈黙。
三度目のサイクルの途中で——かすかに、声が聞こえた。
「……ぅ」
呻き声。小さな。
何をしている。
鈴音が——料理をしている。
隣の部屋の、あのほとんどキッチンと呼べない小さな流し台で。包丁も鍋もろくに持っていないはずの鈴音が、何かを——作ろうとしている。
壁に手を当てた。行くべきか。
行かなかった。
彼女が「一人で考えたい」と言った。その言葉を尊重する。たとえ壁の向こうで何度失敗しようとも——彼女が自分から来るまでは。
◇
木曜日の夜。同じ音がした。今度は金属の音に混じって——卵を割る音が聞こえた。殻が割れる、パキ、という音。
続いて——何かがフライパンに投入される音。ジュワッ。火力が強すぎる。すぐにフライパンが跳ねるような音がした。
五分後。焦げた匂いが——壁を通して、微かに届いた。
また失敗したらしい。
水で洗い流す音。ゴミ袋のがさがさという音。
そしてまた——卵を割る音。
繰り返している。何度も。何度も。
◇
金曜日。大学で鈴音を見かけた。
中庭のベンチに座っていた。久しぶりに。黒髪が風に揺れている。
左手に——小さな絆創膏が三枚貼ってあった。人差し指と中指と、親指の付け根。
包丁傷だ。
——鈴音が包丁を使っている。
料理を覚えようとしている。
柚葉に言われたからか。「料理ができなくても」と言われても、それでも——自分の手で何かを作ろうとしている。
声をかけようとした。足を踏み出しかけた。
鈴音がこちらを見た。
目が合った。五メートルの距離。
腫れぼったい目をしていた。泣いた跡だ。頬がこけている。あまり食べていないのかもしれない。
俺の足は——止まった。
鈴音が何か言おうとした。口が動いた。けれど、言葉にならなかった。
代わりに——立ち上がって、教室棟のほうに歩いていった。
振り向かなかった。
にぎりしめた左手の絆創膏だけが、日差しの中で白く光っていた。




