第36話 二人の女
翌日の午後。
柚葉が鈴音の部屋を訪ねたと知ったのは、壁越しに聞こえた声でだった。
「氷室さん! 開けてください! 話があります!」
あの遠慮の無いドアノック。バンバンバン。容赦がない。
壁に張り付いて聞いた——のではなく、壁が薄すぎて勝手に聞こえてきた。言い訳にもならないが。
「氷室さん、和泉柚葉です。湊先輩の——」
「……開いています」
鈴音の声が、小さく聞こえた。ドアが開く音。
二人が中に入った。会話が——壁越しに流れてくる。
聞くべきじゃない。わかっている。
だが体が壁から離れなかった。
◇
「……単刀直入に言います」
柚葉の声。
「私は先輩のことが好きです。連れ戻しに来ました。でも——」
一拍。
「でも、負けました。あなたに」
沈黙。
「……勝ち負けは、ありません」
鈴音の声。かすれている。数日間、あまり声を出していない人間の声だった。
「あります。先輩のご飯を毎日食べてるのは、あなたです。先輩が二人分の出汁を引いてるのは、あなたのためです。先輩に合鍵を渡されたのも、あなたです。——そういうのを、勝ちって言うんです」
「……私は、何もしていません」
「してますよ。食べてるじゃないですか」
「……食べてるだけ、です。……それしかできない」
「それしかできない、じゃなくて。それがすごいんです」
柚葉の声がわずかに大きくなった。
「私はプロの板前です。先輩と同じ修行を受けて、包丁も握れるし出汁も引ける。料理の腕なら、あなたより遙かに上です。断言します」
「……はい」
「でも、先輩は——私の料理を食べても、あんな顔しなかった」
「……あんな顔?」
「先輩がね、あなたの感想を待っている時の顔。あなたが一口食べて、目を閉じて、沈黙する——あの数秒間、先輩が息を止めてるの、気づいてますか」
「……」
「あれは料理人の顔じゃないんです。あれは——好きな人に、自分の全部を差し出して、受け取ってもらえるか待っている人の顔です」
壁越しでも——柚葉の声が震えているのがわかった。
「私にはあの顔を向けてくれなかった。一度も。何年一緒にいても。——あなたは、出会って数日でそれを引き出した」
長い沈黙。
鈴音が口を開いた。
「……でも私は、みなとさんに何も返せていません。……料理もできない。……みなとさんの才能に見合う何かを持っていない」
「見合うとか見合わないとか——それは私の偏見でした。あなたに言ったこと、謝ります。先輩の隣に立つのに、料理ができる必要なんかなかった」
「……」
「あなたの舌が必要なんです。先輩には。あなたが『美味しい』って——あの壊れたみたいな語彙力で言ってくれることが、先輩の料理を完成させてるんです」
そこだけは断言できる、と柚葉が言った。声は震えていたけれど、確信に満ちていた。
「先輩の料理は、あなたが食べて初めて完成するんです。どれだけ上手い板前が横に立っても——あなたの代わりにはなれない」
沈黙が、長く続いた。
やがて——壁の向こうから、啜り泣く音が聞こえた。
二人分の。
柚葉が泣いている。負けを認めたことへの悔しさと解放。
鈴音が泣いている。自分の価値を他者に告げられたことへの戸惑いと——たぶん、安堵。
俺は壁に額を当てたまま、動けなかった。
聞いてはいけない会話だった。でも——聞いてよかったと、思ってしまった。
◇
三十分後。
柚葉が俺の部屋に来た。目が真っ赤だった。
「先輩」
「ん」
「あの人、すごいですよ。泣きながらも語彙力壊滅なの。『あったかい』しか言わないの。語彙が五個くらいしかない」
「知ってる」
「知ってたんですね。——先輩、最低ですよ。あんないい人隠してて」
「隠してない。お前が勝手に乗り込んできたんだろ」
柚葉が鼻をすすった。
「明日、もう一回だけ来ます。それで——帰ります」
「……そうか」
「先輩。最後に一つだけ、お願いがあります」
「何だ」
「私にも——一回だけ、先輩のご飯を作ってください。板場じゃなくて。先輩が氷室さんに作るような、あの——家庭料理を」
声が、また割れた。
「……わかった」
柚葉がうなずいて、スニーカーを履いて帰っていった。
背中が小さかった。ショートボブの後頭部が、蛍光灯の下で揺れていた。
いいやつだ。
面倒で、うるさくて、猪突猛進で——いいやつだ。




