第35話 柚葉の本音
五日目。柚葉が俺の部屋に来た時、いつもと少し空気が違った。
料理を作らなかった。リュックも持っていなかった。手ぶらで来て、ちゃぶ台の前に正座した。
正座。柚葉が仕事以外で正座をするのは、真剣な話がある時だけだ。
「先輩」
「ん」
「……氷室さん、来なくなったんですね」
「ああ」
「いつから」
「お前が来た日から」
柚葉の表情が、わずかに歪んだ。快活な笑みではない。眉の間に皺が寄っている。
「……私のせい、ですか」
「そうだ」
即答した。柚葉が俯いた。
「お前が俺の過去を全部ぶちまけたから、鈴音は自分と俺の差に打ちのめされて、出てこなくなった」
「……」
「お前の言い分もわかる。俺が料亭に戻るべきだって思ってるのも理解している。でも——関係ない人間を巻き込むな」
「関係なく、ないです」
柚葉が顔を上げた。目が赤い。
「あの人は——先輩の料理を毎日食べてるんでしょう。先輩が毎日二人分のご飯を作って、一緒に買い物に行って、合鍵まで渡してるんでしょう。それで関係ないなんて——嘘です」
「……」
「私は先輩のことが好きです。料理人としても——それ以外でも」
知っていた。ずっと知っていた。柚葉が俺を慕っているのは、連れ戻したい気持ちの半分が好意だということくらい、見えていた。
「先輩の隣で一緒に料理がしたかった。板場に並んで立ちたかった。それが——私の夢でした」
声が震え始めていた。
「なのに先輩は逃げた。料亭を出て、ボロアパートで一人暮らしを始めて。それでも——いつか戻ってくると思っていました。先輩なら、料理を捨てられるわけがないって。……でも」
柚葉がちゃぶ台の上を見た。二人分の食器が置いてある場所。使い込まれた箸。鈴音専用になりつつある湯呑み。
「先輩、もう——ここが居場所になっちゃってるんですね」
否定できなかった。
「あの人のためにご飯を作って、あの人に食材を選んでもらって、あの人に味見してもらって。……それが先輩にとっての板場になってる」
畳を見つめる柚葉の頬に、涙が一筋流れた。
拭わなかった。そのまま、正座を崩さない。
「……あの人に、先輩の手料理を取られたのが——いちばん、悔しいです」
声が、割れた。
「私は——ずっと先輩の料理を食べたかった。先輩に作ってほしかった。でも板場では、そういう関係にはなれなかった。弟子と先輩だから。仕事だから。——一度も、作ってもらえなかった」
——そうだった。
料亭で、俺と柚葉は恋愛に発展し得ない関係だった。仕事仲間。先輩と後輩。板場に恋愛は持ち込まない——親父のルール。
柚葉はそのルールを守った。俺のために。俺が板場にいられるように。
そして俺が逃げた後も——柚葉は板場に立ち続けた。一人で。
「……悪かった」
「謝んないでください」
柚葉が目を拭った。袖で、乱暴に。
「先輩に謝られたら——もう何も言えなくなるから」
沈黙が、しばらく続いた。
◇
柚葉がお茶を飲んだ。俺が入れたほうじ茶。
「……あの人、氷室さん。ただ者じゃないですよね」
「何が」
「舌。あの人の舌、私より上です。たぶん大将と同じか、それ以上」
——気づいたか。
「先輩のハンバーグの動画見ましたよ。あ、鬼舌のリリって人のチャンネルで。あの人でしょ、氷室さん」
「……知らないけど」
「嘘が下手なのは先輩も同じですね」
柚葉がかすかに笑った。泣いた直後の、くしゃりとした顔。
「あの人のレビュー、めちゃくちゃ的確ですよ。プロの料理人が聞いても唸るような分析を、食べるだけでやってる。あの舌は——天才だと思います」
「……」
「でもね、先輩」
柚葉が、まっすぐ俺を見た。
「あの人は——先輩の料理の前だけ、天才じゃなくなるんです」
「どういう意味だ」
「リリの配信見ました。先輩の料理のレビューだけ——語彙が壊れてるんです。あの冷徹な分析力が全部吹き飛んで、ひらがなで『おいしい』しか言えなくなってる」
知っている。俺の飯バフ。
「あれは——好きだからですよ。先輩」
柚葉の目が、真剣だった。涙の跡が残る顔で、真剣に——俺に向かって。
「あの人は先輩の料理が好きなんじゃなくて、先輩が好きなんです。食べてるのはご飯じゃなくて、先輩の気持ちなんです。だから語彙が壊れるんです」
言葉が出なかった。
「……私はあの人に負けました。料理ではたぶん勝ってます。でも——先輩を好きな気持ちの、でかさで。負けました」
柚葉が立ち上がった。
「明日、あの人のところに行きます」
「は?」
「話があります。あの人と」
「待て。鈴音は今——」
「待てません。私が壊したものは、私が直す責任があります」
リュックのない背中が、ドアの向こうに消えた。
スニーカーの足音が、階段を降りていく。
嵐の前の静けさとはこのことだ——と思ったが、嵐はもう来ていた。来ていて、まだ過ぎていなかった。




