第34話 見えなくても、見ている
鈴音が来なくなって三日目。
毎日、袋に入れたタッパーをドアノブに掛けた。肉じゃが、親子丼、焼き鮭弁当。毎朝タッパーは空になって返ってきた。手紙はもう添えられていなかったが、タッパーの蓋がきちんと閉められていることが——食べた証拠であり、唯一の返事だった。
食べている。それだけで、かろうじて俺は立っていられた。
◇
柚葉は三日連続で来た。
毎日料理を持ってきて、俺の前で腕を振るった。鯛のかぶら蒸し、豚角煮の修行版、胡麻豆腐の手作り。どれも料亭レベル。技術が高い。十九歳でこれなら、将来は一人前の板前になる。
だが——三日目の夜、食卓を挟んで柚葉がスマホをいじっているのが目に入った。
「柚葉」
「はい?」
「……お前、SNSに何か上げてないよな」
「え、何もしてませんよ?」
嘘ではなさそうだった。ただ——何か引っかかった。
柚葉が帰った後、袋に入れたタッパーを鈴音のドアノブに掛けに行った。今日は鶏の照り焼き。鈴音が以前「美味しかった」と言った——わずかに声が弾んだ——メニューだ。
ドアノブに掛けて、立ち去ろうとした時。
鈴音の部屋のドアの覗き穴——ドアスコープの奥に、かすかな影が動いた気がした。
気のせいか。
気のせいだと思いたい。もし今、鈴音がドアスコープ越しに俺を見ているのだとしたら——その目には何が映っているだろう。
毎日律儀にタッパーを運ぶ男。
料亭の跡取りなのに、百均のタッパーに唐揚げを詰めて隣の部屋のドアノブに掛ける男。
笑えるだろうか。泣けるだろうか。
どちらでもいい。食べてくれれば。
◇
四日目の夜。
スマホでリリのチャンネルを確認した。三日間沈黙していたリリの、コミュニティに——投稿があった。
【にっき】
さいきん、ごはんをたべていません。
たべていないわけではないです。
でも、じぶんでえらんでたべていません。
まいにち、ドアのぶに、ごはんがかかっています。
だれかが。わたしのために。
まいにち。
たべると、おいしいです。
おいしくて、くるしいです。
わたしには、なにもないのに。
つくってくれるひとの、となりにたつ
ちからも、じかくも、ないのに。
おいしいものをたべるだけのわたしは
そのひとの、となりに
いていいんでしょうか。
コメント欄は嵐のようだった。
『リリ……大丈夫?』
『これ明らかに落ち込んでるよね。何があったの』
『「おいしくて、くるしい」って言葉、重すぎる』
『リリ、お願いだからご飯のこと嫌いにならないで。あなたが美味しいって言ってくれるから、俺たち楽しいんだよ』
『神料理人に何か言われたのかな……心配すぎる』
スマホを握りしめた。
「おいしくて、くるしい」。
俺の作る飯が——鈴音を苦しめている。
料亭の跡取りの料理。プロの技術。それを毎日食べて、自分は何もできない。その差が——鈴音を追い詰めている。
柚葉の言葉が、追い打ちをかけている。「先輩の隣に立つべき人は」。料理ができる人間だけが俺の隣にいる資格がある——と言外に言われた鈴音は、自分の無力さを突きつけられた。
俺が隠していたことも、傷を広げた。
全部——俺のせいだ。
◇
壁に背を預けた。鈴音の部屋に面している壁。
壁の向こうで、彼女がどこにいるのか。何をしているのか。わからない。
ただ——タッパーは毎日空になる。
食べている。俺の飯を。苦しいと言いながら。
それが、何を意味するのか。
答えは出ない。出ないまま、明日も俺はタッパーに飯を詰める。
そうすることしかできないから。




