第33話 来なかった夜
翌日。日曜日。
鈴音は来なかった。
朝。鍵の回る音がしなかった。「おはようございます」がなかった。台所には俺だけが立っていた。
一人分の朝食を作った。卵焼き。味噌汁。白飯。ぬか漬け。
二人分の食器を並べそうになって、手を止めた。
一つ戻す。棚に。
一人分の食卓。三ヶ月ぶりだった。
◇
昼。
作りすぎた焼きうどんをタッパーに詰め、袋に入れて、鈴音の部屋のドアノブに掛けておいた。
三十分後に確認したら——タッパーはそのままだった。
一時間後——そのまま。
二時間後に回収した。焼きうどんは冷めきっていた。
◇
夕方。
柚葉が来た。約束通り。
「先輩、昨日はすみませんでした! ちょっと言い方がきつかったかもしれません」
「ちょっとじゃないだろ」
「……はい。でも、先輩を連れ戻したい気持ちは本気です」
柚葉はリュックから前掛けを取り出した。白い前掛け。実家の料亭のロゴが入っている。
「今日も作りますね。先輩に食べてほしい新作があるんです」
断る理由がなかった。鈴音が来ないなら、一人分の飯を作るか、柚葉の飯を食うかだ。
柚葉は台所に立って——昨日と同じ速度で、料理を仕上げていった。今日は和風のロールキャベツ。出汁で柔らかく煮た春キャベツにひき肉を包んで、白味噌仕立ての汁で整える。
完成品をテーブルに並べる。見た目は完璧だった。料亭の学びがよく出ている。
食べた。美味い。技術的に非の打ち所がない。
——だが。
「先輩、どうですか?」
「うまいよ」
「本当ですか!? 嬉しい!」
柚葉がぱっと顔を輝かせた。
うまい。嘘じゃない。
ただ——何かが足りない。
味噌汁の温度か。出汁のバランスか。いや、技術的には間違っていない。
じゃあ何が足りないのか。
考えて——やめた。答えがわかりそうで、わかりたくなかったから。
◇
柚葉が帰った後、一人でテーブルを拭いた。
壁の向こうは相変わらず静かだった。パソコンの音も、椅子の軋みも、何も聞こえない。
スマホでリリのチャンネルを開いた。
今夜の配信予定——なし。
コミュニティの更新——なし。
日曜日にリリの投稿がないのは珍しい。週末は必ず何かしら動きがあるのに。
スマホを伏せた。
テーブルの上を見る。鈴音の定位置がある。いつも座っている場所。座布団の端を直す癖がついてしまった、あの場所。
空いている。
たった一日なのに——ひどく広い六畳間だった。
◇
月曜日。大学。
講義の合間に中庭を見た。あのベンチ——鈴音がいつも一人で座っていた場所。
いない。
教室も確認したが、鈴音の姿はなかった。月曜は共通の講義がある日なのに。
昼休み、健太がカップ麺を持って隣に座った。
「氷室さん、最近見ないな」
「……ああ」
「なんかあった?」
「……ちょっと」
健太は深追いしなかった。こういう時の空気の読み方だけは、あいつは信じられないほど正確だ。
「まあ、飯の準備でもしとけよ。来たら食えるように」
それだけ言って、カップ麺を啜った。
飯の準備。
——そうだ。それしかできない。
◇
その日の夕方。帰宅して、二人分の夕食を作った。
鶏の唐揚げ。鈴音が好きなやつ。出会って間もない頃、七分で全滅させた、あれ。下味はニンニクと生姜と醤油。片栗粉をまぶして、百七十度で揚げる。二度揚げして、外はカリカリ、中はジューシーに。
出来上がった唐揚げをタッパーに詰め、袋に入れて、鈴音の部屋のドアノブに掛けておいた。
部屋に戻って、自分の分を食べた。一人で。
三十分後。確認しに行った。
タッパーが——なくなっていた。
心臓が、跳ねた。
取ってくれた。食べてくれるかどうかは、わからないけれど。
翌朝。
ドアの前に、タッパーが戻されていた。綺麗に洗われて。蓋の上に——紙切れが一枚。
『ありがとう ございました。
でも しばらく
ひとりで 考えたいです。
おねがいします。』
あの、小学生みたいな字だった。丁寧だけど不器用な、鈴音の字。
紙切れを握った手が——震えた。
わかった。待つしかない。
タッパーを布巾で拭き、棚に戻した。鈴音がいつでも使えるように。




