第25話 雨宿りと、パーカーの温度
六月半ば。梅雨が本格化した。
木曜日の夕方、大学からの帰り道。講義が長引いて、出た時にはすでにどしゃ降りだった。傘を持っていない。
校門を出たところで——鈴音を見つけた。
バス停の屋根の下にいた。同じく傘を持っていないらしい。黒髪が湿気で少し広がっている。パーカーのフードを被っているが、肩や腕はすでに濡れていた。
「鈴音」
「……みなとさん」
「傘、ないのか」
「……はい」
「俺もない」
並んでバス停の屋根の下に入った。狭い。二人で立つとぎりぎりだ。肩が触れる距離。
雨音がすごい。アスファルトを叩く音、排水溝に流れ込む水の音、車が水溜りを跳ね上げる音。全てが重なって、周囲の音を消している。
二人だけの世界みたいだった。俺と鈴音と雨だけ。
五分待ったが、雨は弱まる気配がなかった。
「走るか。アパートまで十五分くらいだろ」
「……十八分だと、思います」
「細かいな」
「……いつも、数えて、いるので」
走った。
二人でアパートまで走った。鈴音は走るのが遅かった。歩幅が小さいし、足の運びが上品すぎる。全力疾走しているはずなのに、腕の振り方が綺麗だ。走り方にまで育ちが出ている。
途中で鈴音の速度に合わせた。こっちが先に行っても意味がない。
アパートに着いた時には、二人ともびしょ濡れだった。
階段を上がる。共用廊下。二〇二号室の前。
「先に着替えて来い。風邪引くぞ」
「……はい」
鈴音が自分の部屋の鍵を出そうとして——止まった。
「……みなとさんも、濡れています」
「わかってる。俺も着替える」
「……その前に」
鈴音が、自分のパーカーを脱いだ。そして——裏返しにして、まだ乾いている裏地側のフードを俺の頭に被せた。
そのまま少し背伸びをして、フード越しにぽんぽんと軽く叩くように、俺の濡れた髪の水分を拭き取ってくれる。
「……これ以上、濡れたままだと、風邪を引きます」
「いや、お前のほうが——」
「……私は、パーカーの下にもう一枚着ています」
確かに、パーカーの下にTシャツを着ていた。だがそのTシャツも濡れていて——
いや。見るな。無地のTシャツが肌に張り付いているのを、見るな。
パーカーを頭に被ったまま、視線を外した。
「ありがとう」
「……早く、着替えてください」
鈴音が自分の部屋に入った。ドアが閉まる。
裏返した重いパーカーが頭の上にある。鈴音の体温と、外側の雨の冷たさが混ざった温度。
二〇二号室に入って、パーカーを外した。ハンガーにかけた。
鈴音の匂いがする。雨に混じった、あのシャンプーの匂い。
着替えた。髪をタオルで拭いた。やかんに火をかけた。
鈴音は——三十分後にチャイムを押してきた。着替え終わったらしい。乾いたパーカーに戻っていた。
「風邪、大丈夫か」
「……大丈夫、です」
「温かいもの作るから。座ってろ」
生姜と葱の効いた鶏雑炊を作った。体の芯から温まるやつ。出汁は多めに。生姜はすりおろしたて。卵を溶いて、最後に流し入れる。
鈴音は雑炊を一口食べて——目を閉じた。
七秒。
「……あったかい」
それだけ言った。
味について、何も言わなかった。美味いとも好きとも。ただ——「あったかい」と。
それで充分だった。
◇
帰り際、パーカーを返そうとしたら——
「……まだ乾いていないなら、明日で大丈夫です」
「あ、確かにまだ湿ってるか。じゃあ明日」
「……はい。おやすみなさい」
ドアが閉まった。
ハンガーにかけた鈴音のパーカーが、部屋の隅にある。
まだ乾いていない。だが——乾くのが、少し遅くてもいいと思った。




