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第26話 だし巻き卵、四つ巻き

あれから少し経ち——約束のだし巻き卵を作る日が来た。


 前夜から準備をしていた。出汁は一番出汁を引いてから冷ましておく。卵は常温に戻す。冷えた卵は巻きにくい。


 卵を四つ割る。白身と黄身を分けない。全卵を菜箸でほぐす——このとき、泡立てないのがコツだ。泡が入るとスが入って、食感が落ちる。切るように混ぜる。


 冷ました出汁を加える。分量は卵の三割。多すぎると巻けない。少なすぎると出汁感がない。このバランスが——全てだ。


 薄口醤油をほんの少し。みりんは一滴。塩はひとつまみ。


 卵焼き器を温める。油を引く。キッチンペーパーで薄く馴染ませる。


 一巻き目。


 生地を流し入れる。ジュワッという音が小さいほうがいい。温度が高すぎると焦げ目がつく。焦げ目は要らない。黄金色でなければならない。


 箸で表面を突いて空気を抜く。半熟のうちに——奥から手前に巻く。手首の返しで一気に。


 巻いた部分を奥に寄せて、空いたスペースに油を引き直す。二巻き目の生地を流す。巻いてある部分の下にも生地が潜り込むように、焼き器を傾ける。


 三巻き目。四巻き目。


 最後の巻きで形を整える。焼き器の角を使って四角く成形する。


 まな板に移す。二分ほど休ませて、切る。


 断面を見た。


 四層がくっきりと見える。どの層も均一な厚さ。色は明るい黄金色。スは一つもない。出汁がにじみ出すような、しっとりとした断面。


 ——合格だ。親父の前でも出せる。


 いや、親父に出すために焼いたんじゃない。


 ◇


 六時十分。チャイム。


 鈴音が入ってきた。鼻が——いつもより大きく動いた。


「……卵の香り。……だし巻き」


「リクエスト通り」


 食卓に並べた。だし巻き卵、四つ巻き。大根おろし添え。白飯。しじみの味噌汁。焼き鮭。


 鈴音は——だし巻き卵の前で、止まった。


 断面を見ている。四つの層を、一層ずつ確認するように目をすべらせている。


 箸を取った。一切れを持ち上げる。


 口に入れた。


 目が——閉じた。


 十秒。


 十五秒。


 過去最長の沈黙だった。


 咀嚼している。だし巻きの出汁が口の中に染み出す瞬間を、舌の上で一滴残らず確認しているのだろう。


 飲み込んだ。


 目を開けた。


 鈴音が俺を見た。まっすぐに。あの、正面から見据える視線。


「……これは」


「ん」


「……趣味の範囲じゃ、ないです」


 ——バレた。


「……この巻き方。四層の均一さ。出汁の浸透率。焼き温度の管理。……これは、何年も何千回も巻いた人の手つきです」


 黙った。


「……みなとさんは、本当は——」


「……昔。実家の手伝いで。たくさん巻いた」


「……手伝い」


「……うん」


 嘘ではない。手伝いはした。死ぬほどした。ただ、「手伝い」と呼ぶには——あまりにも本格的だっただけだ。


 鈴音は追及しなかった。いつも通り。壁を認識して、踏み込まない。


 代わりに——二切れ目を口に入れた。


 三切れ目。四切れ目。五切れ目で、皿が空になった。


「……おかわりは」


「もう一本巻こうか」


「……お願い、します」


 立ち上がって台所に向かう。卵を割る。出汁を加える。焼き器を温める。


 背後に気配。振り向くと、鈴音が台所の入り口に立って、巻くところを見ていた。あの瞳孔が開いた目で。


 視線を感じながら、巻いた。一巻き、二巻き、三巻き、四巻き。


 二本目が焼き上がった。切って皿に盛る。


 鈴音の前に、再び置いた。


「……ありがとう、ございます」


 二本目も——あっという間に消えた。


 鈴音は空になった二枚の皿を見下ろしていた。


「……みなとさん」


「ん」


「……いつか。……巻いているところを、もっと近くで見てもいいですか」


「もっと近くって」


「……隣で」


 隣。台所の。俺の隣で、巻くのを見たいと。


「……」


「……だめ、ですか」


「いいよ。狭いけど」


「……狭くて、いいです」


 意味深なのか天然なのか、この女の発言はいつも判断がつかない。


 洗い物を二人でしている間、ずっと——鈴音の膝の上に置いていた手が、小さく丸められているのが見えた。握り拳。


 嬉しい時の握り拳なのか。何かを堪えているのか。


 聞けなかった。聞かなくてよかった。

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