第24話 風呂上がりと、コインランドリーの二十分
六月に入った。蒸し暑くなってきた。
コーポかすみには、各部屋に洗濯機を置くスペースがない。一階に共用のコインランドリーが二台あるだけだ。
金曜日の夜、九時過ぎ。風呂上がりにコインランドリーに行った。Tシャツに短パン。髪はタオルで拭いただけで半乾き。
階段を下りて、ランドリー室のドアを開ける。
鈴音がいた。
彼女も——風呂上がりだった。
濡れた黒髪が背中に張り付いている。タオルを肩に掛けて、薄手のワンピースのような部屋着を着ていた。
いつものパーカーではない。肩のラインが見えている。鎖骨が見えている。
洗濯機の前に立って、洗い終わった洗濯物を取り出しているところだった。
俺に気づいて振り向いた。
濡れた髪が、振り向いた拍子に肩からさらりと流れた。蛍光灯の白い光が、透き通るように白い肌を照らしている。
一秒。
だめだ。見てはいけない。脊髄が警告を出している。
「……あ」
「お」
互いに単音だけ発して、停止した。
沈黙。洗濯機のモーターが唸る音だけがランドリー室に響いている。
鈴音は洗濯物を——自分の下着が混じっているのだろう、カゴの上にタオルをかぶせて隠した。動きが速い。いつもの鈍い反応とは打って変わって、その一挙動だけが素早かった。
「……先に使ってたのか。悪い、後にする」
「……いえ、もう終わりました。どうぞ」
擦れ違う。狭いランドリー室の中で。
その時——鈴音の髪から、シャンプーの匂いが届いた。
同じ匂い。俺の髪からも同じ匂いがしているはずだ。風呂上がりの、シャンプーが最も強く香る瞬間に——至近距離で、同じ匂いを纏っている。
鈴音の足が——止まった。
俺の横で立ち止まっている。カゴを抱えたまま。視線は——床。
「……同じです」
「……」
「……やっぱり、同じ」
匂いのことだ。三日前のシャンプーの件。あの時は「偶然です」で済ませた。
だが今、風呂上がりの至近距離で——偶然の一言で済ませるには、あまりにも近い。
「……変えたほうが、いいですか」
——変えたほうがいいか。シャンプーを。
俺は三日前、変えなかった。変えなかった理由を考えないことにした。
「別に」
「……別に?」
「変えなくていいんじゃないか。安いし」
最低の返答だった。「安いから」。それ以外の理由を口にできない。
鈴音は二秒ほど黙って——それから、小さく頷いた。
「……そうですね。安い、ですし」
カゴを抱えて、ランドリー室を出ていった。階段を上がる足音が、濡れたスリッパでぺたぺたと遠ざかる。
俺は洗濯機にジーンズとシャツを放り込んで、コインを入れた。三十分コース。待つ間、パイプ椅子に座って天井を見上げた。
あの部屋着。肩のラインと鎖骨。一秒だけ見えた横顔。
——見るな。考えるな。隣人だ。飯係と飯食い係。それ以上でもそれ以下でもない。
そう言い聞かせながら、洗濯機が回る二十分間——他のことが一切考えられなかった。
◇
翌日の夕食。いつも通り。
鈴音はいつものパーカーに戻っていた。いつもの無表情。いつもの箸の運び。何事もなかったかのように、鯖の塩焼きを食べている。
だが——距離が近い。
ちゃぶ台を挟んで向かい合うだけだが、以前は正面に座っていたのが、最近少しずつ——角度がずれている。正面から九十度の位置。L字型。
横に並ぶ、一歩手前のポジション。
指摘はしなかった。鈴音本人も無自覚なんだろう。体が勝手に近づいている。猫が気に入った場所に少しずつにじり寄るように。
「……みなとさん」
「ん」
「……次の買い出しのとき、卵を多めに買いたいです」
「何に使うんだ」
「……だし巻き卵を、みなとさんに作ってほしいから」
リクエストが増えた。以前はハンバーグだけだったのが、今は二日に一回くらいのペースで「食べたいもの」を言ってくる。不器用ながらに。
「了解。三つ巻きか四つ巻きか」
「……四つ巻き。生地は甘くなく。出汁をしっかり」
注文が具体的すぎる。この舌を持つ女に出す巻き卵のハードルは——とんでもなく高い。
「いい度胸だな。お前の舌に合格する巻き卵が作れるかどうか——」
「……みなとさんなら、作れます」
即答だった。迷いのない、まっすぐな声。
信頼——なのか。期待——なのか。
どちらにしても——逃げられない。この女の舌の前では、手を抜くことは許されない。
「任せろ」
洗い物をしながら、巻き卵の段取りを頭のなかで組み始めた。
卵四つ。出汁多め。醤油は薄口。みりんは一滴だけ。巻き方は——実家で五千回は巻いた。手が覚えている。
手が——覚えている。逃げてきたのに、包丁も、出汁も、巻き卵も、全部体が覚えている。
面倒くさい。面倒くさいが——手を抜けない。抜きたくない。
この女の舌が、いつかの朝に一口目で「四つ巻きの具合」を判定する。その瞬間を——待っている自分がいる。




