第21話 配信事故——マイクが拾う、隣の独り言
事件は、木曜日の夜に起きた。
いつも通り鈴音が帰ったあと、俺は片付けを済ませてベッドに転がっていた。二十一時半。スマホでリリの配信スケジュールを確認する。今夜は二十二時からライブ配信の予定になっていた。
壁の向こうから、パソコンの起動音が微かに聞こえた。配信の準備だろう。
二十二時。配信が始まった。スマホでリリのチャンネルを開く。
銀髪のアバターが画面に映る。ボイチェン越しの冷たい声。今夜のお題は、渋谷にオープンしたばかりの創作和食レストランのレビューだった。
『——前菜の白和えでございますが。豆腐の水切りが甘い。手抜きと呼ぶのは手抜きに失礼です。怠慢です』
通常営業だ。安定の星ゼロ街道。
コメントが流れている。
『リリきたああああ』
『今日も辛口ですね?』
『前菜の時点で星ゼロ確定の空気で草』
俺はイヤホンをつけて、半分聞き流しながら台所の片付けの続きをしていた。
明日の朝の出汁の仕込みをしておこう。昆布を水に浸けておけば、朝の手間が省ける。水を張ったボウルに昆布を入れる。
——冷蔵庫の中の鶏肉、明日使いきらないと。あさって鈴音が来た時に新しい鶏肉で親子丼を……いや、もう二回目だから別のほうがいいか。
そんなことを考えながら、ボウルを冷蔵庫にしまおうとした——その時。
手が滑った。
——ガシャン!!
「うおっ、あっぶね! 一番出汁こぼすところだった……鰹入れすぎたし!」
静かな夜の台所に、落としたボウルを受け止めた安堵と昨日の反省が混ざった、無駄に大きな叫び声が響き渡った。
——イヤホンからの配信音声が、一瞬、異様なノイズを発した。
スマホの画面を見る。配信は継続中。だが、コメントが——爆発していた。
『え、今の叫び声何??????』
『ボイチェンバグった!? なんか野太いノイズ混じりの声したぞ!!!!!!!!』
『リリの部屋にオトコいる??????』
『「一番出汁こぼす」って聞こえたんだけど、あの低音ノイズ何??????』
『おい落ち着けお前ら リリのリアクション見ろ 固まってる』
画面のアバターが——固まっていた。表情トラッキングがフリーズしたように、微動だにしない。
三秒。五秒。
リリのボイチェン越しの声が、震えながら再開した。
『……えー、と。今のノイズは。その。はい。何でもございません。……我が家の妖精、です』
妖精。
俺の声が、ボイチェンの設定音量を強引に突き抜けて出力された結果が、妖精。
『妖精が、ときどき、一番出汁について……叫びます。……はい。妖精ですので、お気になさらず。では、レビューに戻りましょう。……えー、メイン料理の——あの、メインの——えーと——』
動揺が隠せていない。ボイチェンが声の震えを処理しきれずに、所々音が割れている。
コメント欄は完全にカオスだった。
『妖精がwww一番出汁についてwww独り言をwwwwwwwwwwwwww』
『妖精が出汁を語る概念意味わからなすぎて腹筋が死んだ』
『いやいやいやいやいや冷静に聞いてくれ。リリの部屋の隣に、出汁について独り言を言う男が住んでいる。このプロフィール、完全に例の神料理人では??????』
『特定班動け!!!!!!!!!!』
『↑お前落ち着けwwwwww びっくりマーク多すぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww』
——やってしまった。
壁が薄い。俺の台所での叫び声が、鈴音の部屋のマイクに拾われた。ボイチェンのノイズゲートを強行突破して、電子音まじりの異形の声として。
慌ててスマホの配信を閉じた。壁の向こうに耳を当てる。
鈴音の声が——配信を必死に続けようとしているが、完全にグダグダになっている。呼吸が荒い。
これはまずい。
俺は台所の水を止めた。テレビもラジオも元々ない。音を出すものを全て止めて、部屋を完全に無音にした。
十分後。配信が終わった。いつもより早い。
壁の向こうで、パソコンを閉じる音。椅子が軋む音。
そして——コンコン。
ドアがノックされた。
開けると——鈴音がいた。
無表情。ただし——顔全体が赤い。耳だけでも首だけでもなく、顔面がまるごと赤い。パーカーのフードを目深に被っているが、赤さは隠せていない。
「……みなとさん」
「ん」
「……さっき、何か、声を出しましたか」
——知っている。お前がリリだということを。
だがそれは言えない。
「え? あー、でかい声出してたかも。鍋落としそうになって。出汁がどうとか。壁薄いから聞こえたか?」
「…………」
長い、長い沈黙。
「……いえ。……大丈夫、です。……ただ」
「ただ?」
「……叫ぶ時は、なるべく……小声で、お願い、します」
「……叫ぶのに小声?」
「……はい」
鈴音は踵を返した。自分の部屋のドアに手をかけて——振り返った。
「……妖精」
「……え?」
「……なんでも、ないです。おやすみなさい」
ドアが閉まった。
……妖精って言ったよな、今。
壁の向こうから——ベッドのスプリングが軋む音と、枕に顔を埋めるような「ぅぅ」という声がかすかに聞こえた。
悶えている。
配信事故の恥ずかしさで、壁の向こうで一人悶えているらしい。
俺もベッドに倒れ込んだ。
妖精か。
出汁の配合に独り言を言う妖精。
キャラ設定として最悪すぎる。
それでも——少しだけ、笑った。




