第20話 大学の氷と、食堂のラブコメ
「あーん」事件の翌日。大学。
何事もなかったかのように講義を受け、昼休みに食堂に向かった。鈴音とは偶然を装って会えることもあれば、会えないこともある。今日は——会えた。
というか、会いに来た。
いつもの中庭のベンチに黒髪が見えたから、足が勝手に向かった。先日の件以来、学食に誘うのは自然な流れになっている。
「鈴音。飯、行くか」
「……はい」
並んで歩く。
相変わらず、周囲の視線が集まった。氷の美女・氷室鈴音と一緒に歩いている男。その噂は確実に広がっている。すれ違う学生が二度見していく。
食堂は混んでいた。二人分のトレイを確保して、空いている席を探す。隅のテーブルに座った。
鈴音は日替わり定食。俺はカツ丼。食べ始めて数分後、向かいに座っている鈴音の箸が——昨夜よりも動きが硬い。緊張しているのか。
俺の口元に運ばれた、箸先のことを思い出しているのか。
俺だって思い出している。あの感触。箸越しに伝わった、間接的な、けれど生々しい感覚。だから今朝から鈴音の口元を見ることができない。目が泳ぐ。首から上を見ないようにしている。だが避けると逆に意識する。悪循環だ。
——いや、カツ丼のことだけ考えろ。
「おう湊! と——えっ、氷室さん?!」
健太だった。トレイ片手に、目を見開いて立っている。
「いや、え、マジで? お前ら一緒に飯食ってんの?」
「見ればわかるだろ」
「いやだって、あの氷室さんだぞ? 人文学部の氷の——」
「健太」
「はい」
「座れ」
健太が向かいの鈴音の隣に座った。鈴音は微動だにしなかったが、箸を持つ手がほんの少し強張った。知らない人間への警戒だ。
「えーと、相馬健太です。湊と同じ学部の——」
「……氷室、鈴音です」
「き、綺麗な名前ですね」
「……ありがとうございます」
会話が終わった。健太が俺に助けを求める目を向けてきた。
「同じアパートの隣人。いつも飯作ると食いに来るんだ」
「は? え? お前が飯を? 隣人に? 毎日?」
健太の目が点になった。そこから先は予想通りの質問攻めだった。
「それ付き合ってるの?」
「付き合ってない。飯を作ってるだけ」
「毎日飯作ってるのに付き合ってないの?」
「だから飯係と飯食い係ってだけだ」
「いやそれ世の中的にはデートって言うんだけど」
「デートは外食だろ。うちで作ってるだけだ」
「うちで作るほうがもっとヤバいだろ!」
健太が声を上げるたびに、周囲のテーブルの学生がちらちらとこちらを見る。鈴音は——味噌汁を啜りながら、まるで無関心を装っていた。
だが、耳が赤い。
「つーか湊、お前料理めちゃくちゃ上手いもんな。実家が飲食関係だっけ?」
「……まあ、似たようなもん」
「じゃあ氷室さん、湊の料理美味い?」
鈴音に話を振った。
沈黙。三秒。
「……はい」
「どのくらい美味い?」
鈴音は箸を止めた。考えている。言葉を選んでいる。
五秒。十秒。
「……私が今まで食べたどんな料理よりも、美味しいです」
健太が固まった。俺も固まった。
この女——サラッとそういうことを言う。長い沈黙のあとに放つ一撃が重すぎる。
「……え、今まで食べたどんな料理って、そりゃまた大きく出たね」
「……事実、です」
健太が俺のほうを向いた。顔に「お前、何を食わせてるんだ」と書いてある。
「普通の家庭料理だよ。ハンバーグとかカレーとか」
「それで『今まで食べたどんな料理より美味しい』って言われるのは絶対に普通じゃないからな?」
——それは、こいつの舌が異常だからだ、とは言えない。
昼食の残り時間を、健太のマシンガン質問をかわしながら過ごした。鈴音は自分のトレイを静かに片付けた。
「また一緒に食べましょう」と健太が言った時、鈴音は小さく——本当に小さく頷いた。
◇
帰り道。大学の門を出たところで、鈴音が足を止めた。
「……みなとさん」
「ん」
「……相馬さん、面白い人ですね」
面白い。鈴音の口から、人に対する形容詞が出たのは初めてだった。
「うるさいだろ。あいつ」
「……でも。……みなとさんと話している時の、相馬さんは……楽しそうでした」
「そうか?」
「……私も、ああいうふうに。……人と、話せたら」
言葉が途切れた。
「……いいな、と。少しだけ」
それだけ言って、アパートに向かって歩き出した。
——ああいうふうに話したい。
そう思っていることを、鈴音は初めて口にした。
喋れないことを「慣れている」と言っていた女が。大学で一人でも「大丈夫」と言っていた女が。
少しずつ——壁を、自分で削り始めている。
アパートの階段を上がる。俺が先に二〇二号室のドアを開ける。鈴音がそのまま俺の部屋に入る。もう、彼女の部屋には寄らない。
夕食の準備は二人で始めた。今日のメニューは——何にしよう。
冷蔵庫を開ける。鈴音が隣に立って、中身を覗き込んでいる。肩が触れた。どちらも避けなかった。




