第19話 味見と、あーん
鈴音が俺の部屋にいる時間が——確実に増えていた。
以前は夕食だけだったのが、先週の買い出し同行を境に「仕込みの段階」から参加するようになった。
俺が台所で食材を切っている横に立って、洗い物の順番を待つ——のではなく、食材を洗ったり、皿を出したり、調味料を測ったりしている。何も言わなくても動く。料理の工程を理解しているから、次に何が必要か先回りして準備できる。
作れない。けれど、わかる。
料理人ではない。しかし、料理について多くを知っている。「食べる側のプロ」という表現は比喩ではなく、本当にその通りだった。
◇
土曜の夕方。今日は肉じゃがのリメイクとして、コロッケを作ることにした。
前日の肉じゃがの残りを潰してコロッケの種にする。じゃがいもが出汁を吸い込んでいるから、特別な味付けはいらない。形を整えて、小麦粉、卵、パン粉。
パン粉をまぶした種をバットに並べる。冷蔵庫で三十分休ませて、衣を締める。
その間にソースを作る。ウスターソースにケチャップを少し。からしを添える。
油の温度を確認する。菜箸を入れて、泡の出方を見る。百七十度。種を静かに沈める。ジュワッ、と油が歌う。衣がきつね色に変わるまで触らない。
一つ目を引き揚げた。
「……味見、していいですか」
鈴音が横にいた。俺が揚げたばかりのコロッケを、凝視している。
「熱いぞ。少し冷ましてから」
「……はい」
皿に一つ取り分けて、テーブルに置いた。鈴音は椅子に座って、コロッケを見つめている。湯気が立っている。
「……もういいですか」
「……もうちょい」
「……」
待てないらしい。箸の先でコロッケを突っついている。まだ早い。中のじゃがいもは溶岩だ。
残りのコロッケを揚げながら様子を見ていたら——鈴音が、箸でコロッケを割った。断面から湯気がぶわっと上がる。
その半分を——箸でつまんだ。まだ熱いはずなのに。
「……ふー。ふー」
息を吹きかけている。無表情のまま、コロッケに息を吹きかけている。
——かわいい、と思ってしまった。
いやいやいや。待て。料理中だ。油がある。集中しろ。
菜箸に意識を戻した。二つ目のコロッケを揚げる。引き揚げて、油を切る。
三つ目を沈めたところで——バットの上のコロッケを見て、ふと思った。
「……なあ、鈴音」
「……はい」
「そっちの半分、味見させてくれないか。自分の舌でも確認しておきたい」
鈴音は、食べかけのコロッケの残り半分を箸でつまんだまま、俺を見た。
「両手塞がってるから、そのまま放り込んでくれ」
俺は油鍋から目を離さず、口だけを「あーん」と開けた。
実家の厨房では、手が離せない状態で板前同士がこうやって味見をさせ合うのは日常茶飯事だ。だから完全に無意識だった。
——だが、板場の慣習を、隣人の女の子に対してやっていいはずがなかった。
三秒ほどして、気づいた。
口を開けたまま固まった。
引っ込めようとして——横の気配に、俺の首が止まった。
鈴音の箸が、俺の口元まで来ていた。
彼女はためらうように、けれど確実に——食べかけのコロッケを、俺の口に運ぼうとしている。
今さら「やっぱいい」なんて言える空気じゃなかった。
コロッケが、俺の口に入った。
箸の先が、一瞬だけ俺の唇に触れた。
熱くはない。彼女が冷ましたから。彼女が一口かじって、冷ました断面から、じゃがいもの甘みが広がった。
俺は口を閉じて、咀嚼した。飲み込んだ。
無表情。完全なる無表情。けれど——首から上が全部赤い。耳の先はもちろん、頬も、うなじも。全部。
俺も——たぶん、顔に出ている。出ていないことを祈りながら、油鍋に向き直った。
「……問題ない」
声が若干上擦った。ごまかすために菜箸をやたら忙しく動かした。
「……はい」
小さな声。消えそうな声。
それ以上は何も言えなかった。
コロッケを揚げ終えるまでの七分間、台所は異常な静けさに包まれていた。油が跳ねる音だけが、大げさなくらいに響いていた。
◇
食卓。コロッケ。キャベツの千切り。味噌汁。白飯。
普通の夕食。普通の食卓。
ただし——食事中、俺も鈴音も相手の顔を一度も見なかった。コロッケと白飯だけを凝視して、黙々と食べた。
洗い物も、いつもの半分の時間で終わった。二人とも手際が異常に早かった。
帰り際。
「……おやすみ、なさい」
「おやすみ」
ドアが閉まる。鍵の音。
自分の唇に触れた。彼女の箸先が触れた場所。
熱くはないのに——まだ、感触がある。
流しの水で手を洗った。冷水で。しばらく。




