第18話 包丁と、背後の視線
俺の包丁さばきが普通じゃないことに、鈴音は当然のように気づいていた。
初日のうどんの時点で出汁の引き方を見抜いた舌だ。当たり前と言えば当たり前だが、具体的に指摘されたのは——この日が初めてだった。
◇
夕食の準備中。今日は筑前煮にしようと思っていた。
ごぼうのささがきを作る。包丁を鉛筆を削るように回しながら、薄く、均一に。
近くに気配があった。振り向くと——鈴音が、台所の入口に立っていた。いつもの布巾を手に。洗い物ポジションのはずだが、まだ洗い物はない。
見ている。
俺の手元を——凝視している。
無表情だが、瞳孔が開いている。あの「味覚全開」の時と同じ目。だが今読み取っているのは味ではなく、包丁の動きだ。
気にせず続けた。ごぼうのあとはにんじんの乱切り。れんこんの薄切り。こんにゃくの手ちぎり。
鶏もも肉に移った。関節を外して、部位ごとに切り分ける。骨に沿って刃を入れ、一太刀で腱を断つ。
——ここで、失策を犯した。
こんにゃくの下茹で用の鍋の火が強すぎたのが気になって、鶏肉を切りながら左手でコンロの火力を調整した。その間も右手は止まらない。鶏肉の筋を取りながら、同時に——ネギの小口切りに移行した。
包丁が、まな板の上でトントントントン、と一定のリズムを刻む。機械のような等間隔。速い。ネギが均一な厚さで転がっていく。
——まずい。
実家の癖が出た。板場では複数の仕込みを同時にこなすのが当たり前で、片手で火力調整をしながら片手で食材を捌く。一日に何十人分もの仕込みをこなす中で身についた動き。
一人暮らしの大学生が、やっていい手際ではない。
気づいた時にはもう遅かった。鈴音の視線が——刃先に釘付けになっていた。
「……みなとさん」
「……ん」
「……今の、包丁」
「ん?」
「……プロの動きです」
否定できなかった。
沈黙が落ちた。ネギの断面が、まな板の上で光っている。完璧に均一な、三ミリの薄さ。
「……昔、ちょっと」
「……ちょっと、ではない動きでした」
珍しく、鈴音が食い下がった。いつもなら一歩引くのに。
俺は包丁を置いた。まな板を拭く。
「……家の手伝いで、包丁は小さい頃から使ってた」
嘘ではない。かなり端折っているが。
「……家の、手伝い」
繰り返す鈴音の声に、疑いの色はなかった。納得もしていなかったが——それ以上は踏み込まなかった。
代わりに。
「……味見を、してもいいですか」
「まだ煮込んでないぞ」
「……切ったにんじんを、一つ」
生のにんじんの味見?
断る理由はない。乱切りにしたにんじんを一つ差し出した。
鈴音がそれを受け取り、かじった。生の、何の味付けもしていない、ただのにんじんを。
咀嚼。
「……包丁の切れ味がいい人が切ったにんじんは、断面が滑らかで、繊維が潰れていません。だから……生でも、甘みが逃げない」
——参った。
にんじんの断面から、包丁の切れ味を判定している。この女の舌と目は、もう物理法則の外にいるんじゃないか。
「……みなとさんの包丁は、いつも研いでありますね」
「ん、まあ。週に一回は」
「……包丁を研ぐ習慣がある一人暮らしの大学生は、あまりいないと思います」
核心に近い指摘だった。だが鈴音は、それ以上は言わなかった。
代わりに——にんじんの残りをかじりながら、俺の横に立った。布巾を手に。いつものポジション。
「……美味しいです。このにんじん」
「まだ何も味付けしてないんだけど」
「……みなとさんが切ったから、美味しいんです」
——それは。
料理の味付けの話なのか、それ以外の何かなのか。
鈴音の耳が赤いから、たぶん——後者に片足を突っ込んでいることに、本人は気づいていない。
俺は黙って筑前煮の煮汁を鍋に入れた。醤油、みりん、砂糖、酒。出汁を注ぐ。食材を加えて、落し蓋をする。
横に鈴音がいる。布巾を握っている。ぬくもりが——三十センチ先にある。
煮汁が泡立ち始める音だけが、小さな台所を満たしていた。




