第17話 新婚夫婦と間違えられた件について
翌週も、鈴音と買い出しに行った。
水曜日の夕方。講義が終わってから合流して、駅前のスーパーへ。先週のアスパラの件以来、鈴音は買い出しに関して一切の遠慮を捨てた。
というか——仕切り始めた。
「……みなとさん、今日のにんじんは北海道産のほうがいいです。千葉産は時期的に端境で甘みが落ちます」
「了解」
「……鶏もも肉はこのパックです。ドリップの色が淡いものが新鮮です。三番目のは避けてください」
「はい」
「……玉ねぎは大きいものより中くらいが火の通りが均一です。みなとさんの切り方なら中サイズが最適です」
俺の切り方まで計算に入れている。
気づけば、カゴの中身は完全に鈴音のキュレーションになっていた。俺はカゴを持って後ろをついていくだけ。仕入れ担当と料理担当が完全に分業されている。
——まるで。
「いらっしゃいませ。あ、奥さん、今日のお魚は鯛がおすすめですよ」
鮮魚コーナーの店員が、鈴音に声をかけた。
奥さん。
俺と鈴音の動きが同時に停止した。
店員のおばちゃんは満面の笑みだった。
「若いのにしっかりしてるわねえ。旦那さんに栄養のあるもの食べさせなきゃね。新婚さん?」
鈴音の耳が——過去最高記録の赤に染まった。首筋まで赤い。顔は無表情のままだが、体の末端が全力で動揺を告白していた。
「……あ、いえ——」
俺が否定しようとした瞬間、鈴音が口を開いた。
「……鯛は、養殖ですか、天然ですか」
完全に質問で返した。否定も肯定もしていない。ただ鯛の話に切り替えた。
「天然もんよ! 今朝揚がったばかり」
「……目が澄んでいます。鰓の色も鮮やかです。……買います」
鈴音は無表情のまま鯛を受け取り、カゴに入れた。俺の顔は見ない。一切見ない。耳だけが真っ赤だ。
店員のおばちゃんが、にこにこしながら俺に目配せしてきた。
「いいお嫁さんじゃない」
「……どうも」
否定するタイミングを完全に逃した。
◇
帰り道。
鈴音は俺の七十センチくらい後ろを歩いていた。いつもより遠い。
「鈴音」
「……はい」
「さっきの——」
「……なんでも、ないです」
遮られた。声は小さいが、はっきり「聞くな」と言っている。
わかった。触れないでおく。
ただ——否定しなかったのは、どういう意味だ。「違います」と言えばよかったのに。俺だって否定しかけたのに、鈴音が先に鯛の話に切り替えたから、俺まで言いそびれた。
……いや、俺も否定しなかったのか。
気づいて、背筋が変な感じになった。考えるのをやめた。
◇
その夜は、天然鯛の塩焼きにした。
鯛は鱗を丁寧に引く。包丁の背でがりがりとやるのは雑だ。鱗引きを使って、尾から頭に向かって一方向に。飾り包丁を入れて、粗塩を振る。二十分置いて水分を出し、もう一度塩を振ってから焼く。
魚焼きグリルの火加減を見守りながら、皮がぱりっと音を立て始めるのを待つ。
焼きあがった鯛を皿に盛った。尾頭付き——ではないが、切り身の焼き具合は完璧だった。
鈴音は皿の前で——数秒、動かなかった。
「……私が、選んだ鯛」
「うん」
「……みなとさんが、焼いてくれた」
「うん」
彼女は箸を取った。身をほぐす。骨と身の間に箸を滑らせる所作が、やっぱり綺麗だった。
一口食べた。
目を閉じた。三秒。
——あの、味覚全開モードの沈黙。
目を開けた。
「……自分で選んだ食材だけを、全部、誰かに料理してもらったのは……初めてです」
声が、震えていた。微かに。
初めて。
あの舌を持ちながら——自分の意思で食材を選び抜き、それを誰かに託す経験がなかった。家では用意されたものを食べるだけだった。選ぶ権限は与えられていなかったのかもしれない。「食べさせられてきた」と言った過去の言葉が蘇る。
「来週も一緒に買いに行くか」
「……はい」
即答だった。今までで一番早い返事。
◇
深夜。リリのコミュニティに新しい投稿が上がっていた。
【にっき】
きょう、またかいものにいきました。
だれかと、ならんで食材をえらぶのは、とてもしんせんでした。
わたしがえらんだおさかなを、そのひとが、やいてくれました。
しょくざいをえらぶのが、こんなに、たのしいと
しりませんでした。
おみせのひとに、おくさんとよばれました。
ちがいます。
ちがい、ます。
ちがう、のに。
……おくさん。
コメント欄。
『完全にのろけで草』
『「ちがう、のに」の「のに」にすべてが詰まってる件について語らせてくれ(3000字のスレッド)』
『リリの日記が毎回ラブコメの最終話みたいな甘さなんだが、これ始まってすらないの????』
『神料理人と結婚しろ 俺たちが許す』
スマホを裏返して枕の上に置いた。
壁の向こうから——パソコンを閉じる音がした。たぶん今、投稿し終わったところだろう。
おくさん。
その単語を、暗闇の中で反芻する。口に出さない。出したら——戻れないような気がした。
目を閉じた。天然鯛の塩焼きの残り香が、まだ部屋のどこかに漂っていた。




