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第14話 ベランダ越しの、おやすみ

四月が終わろうとしていた。


 鈴音との食事が日常になって、もう一ヶ月近くになる。最初は「余った飯を食わせる」だけだった関係が、今では「二人分の献立を考えて、二人分の食材を買い、二人分の食卓を整える」ことが当たり前になっている。


 自分の生活が、いつの間にか鈴音込みで回っている。


 それを異常だと思わなくなっている自分のことも含めて。


 ◇


 土曜日の午後。天気が良かったので、布団を干した。


 二〇二号室のベランダは狭い。物干し竿にシーツを掛けると、それだけでいっぱいになる。


 隣のベランダ——二〇三号室——に目をやると、鈴音も洗濯物を干していた。薄手のカーディガン。パーカー。白いタオル。


 物干し竿に手を伸ばしている彼女の背丈では、竿がギリギリだった。つま先立ちで、洗濯バサミに手が届かず、二回ほど空振りしている。


「届かないなら言えよ」


 声をかけると、鈴音がビクッと肩を跳ねさせた。隣にいたことに気づいていなかったらしい。振り向く。無表情。


「……大丈夫、です」


「嘘つけ。三回空振りした」


「……二回です」


「三回だよ」


 ベランダの仕切り板は低い。俺の背なら、手を伸ばせば隣の竿に届く。洗濯バサミを取って、カーディガンを留めてやった。


「……ありがとう、ございます」


「風で飛ぶな、これ。もう一個留めとく?」


「……はい」


 二枚目のパーカーも留めた。彼女が自分でタオルを干すのを眺めていたら、タオルの端がベランダの手すりに引っかかった。取ろうとして身を乗り出した鈴音の指先が、仕切り板を挟んで——俺の手に当たった。


 一瞬の接触。


 鈴音の指が——凍ったように止まった。


「……すみません」


「いや——別に。タオル、取るぞ」


 引っかかっていたタオルを外して渡す。鈴音はそれを受け取ると、まるで熱いものに触れたように自分の手を引っ込めた。


 ……そんなに驚くことか。


 いや。たぶん、彼女にとっては——他人の手に触れることが、それだけの出来事なんだ。


 ◇


 その夜はカレーを作った。


 玉ねぎを飴色になるまで四十分炒める。生姜とニンニクをすりおろして加える。市販のルーは二種類をブレンド。隠し味にインスタントコーヒーとチョコレートをひとかけら。


 これは実家の料亭のレシピではない。完全に家庭料理だ。俺がこのアパートに来てから、自分で試行錯誤して作り上げたカレー。料亭の技術は出汁にしか使っていない。


 鈴音はカレーを食べながら、いつもの反応を見せた。箸——今日はスプーンだが——の速度が上がる。瞬きが減る。


 だが、途中で手を止めた。


「……みなとさん」


「ん」


「……このカレー、今までの料理と少し違います」


「どう違う」


「……他の料理には、全部、強い基盤がありました。出汁の引き方とか、温度管理とか。……どこかで体系的に学んだ人の料理です。でも、このカレーだけは——」


 彼女は言葉を選んでいる。口下手な彼女が、必死に言語化しようとしている。


「……試行錯誤の味がします。最初から完璧だったんじゃなくて、何度も作り直して、今の形にたどり着いた味」


 ——すごいな、本当に。


 何百杯もの高級料理を食べてきたであろう舌が、俺のカレーの来歴まで見抜いている。


「当たりだよ。これは俺がここに越してきてから、自分で作ったレシピ。試行錯誤の産物」


「……」


「他の料理は——まあ、昔ちょっと料理を教わってた時期があって。その名残」


 言い方を曖昧にした。料亭の息子です、とは——まだ言えない。


 鈴音はそれ以上聞かなかった。互いの壁。いつもの距離。


「……このカレーが、いちばん好きです」


 出た。「好き」が。


 しかも今回は——「いちばん」つきだ。


 料亭仕込みの品々ではなく、俺が自分で作り上げたカレーが「いちばん好き」だと。


 ……不思議だ。あの舌なら、技術的に優れた料理のほうが評価が高いはずなのに。


「……技術じゃなくて、温度が、好きなんだと思います」


 見透かされたかのように、鈴音が付け加えた。


 温度。


「……みなとさんの料理の奥に、全部、同じ温度があります。……うどんの時から、ずっと」


 それ以上は言えなかったのか、鈴音はカレーの残りをスプーンですくって、口に運んだ。


 温度、か。


 うちの親父に言ったら怒鳴られるだろう。技術に裏付けされない「温度」なんて甘えだ、と。でも——目の前のこの女は、その温度でいいと言っている。


 ◇


 その夜。鈴音が帰ったあと、ベランダに出た。


 五月の夜風は涼しい。洗濯物はとっくに取り込んであるが、なんとなく外の空気を吸いたかった。


 隣のベランダに——鈴音がいた。


 彼女もベランダに出ていた。手すりにもたれて、空を見上げている。星は見えない。都会の空は明るすぎる。


 仕切り板越しに、互いの存在を認識した。


「……眠れない?」


 聞いた。


「……少し」


「風、気持ちいいな」


「……はい」


 並んでいる——わけではない。仕切り板一枚、隔てている。けれど同じ夜風の中にいる。同じ空を見ている。


 二分ほど、黙っていた。


 鈴音が先に部屋に戻ろうとして、ベランダの窓に手をかけた。


「……おやすみなさい、みなとさん」


「おやすみ」


 いつもの挨拶。でも今夜は——ドア越しではなく、夜風の中で交わした。


 鈴音がベランダの窓を閉める。カーテンが揺れる。


 俺はもう少しだけ、そこに立っていた。


 仕切り板の向こう側に、さっきまで彼女が立っていた場所がある。手すりのどこかに、まだ温度が残っているかもしれない。


 確かめなかった。


 確かめたら、何かが変わりそうだったから。

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