第15話 胃袋を握られ、秘密を背負う
五月。
ゴールデンウィークの連休が始まった。大学は休み。バイトもない。一週間、このアパートから出る用事がほぼない。
ということは——鈴音が朝昼晩、三食来る可能性がある。
その予感は的中した。
◇
初日の朝。九時過ぎ。チャイムが鳴った。
寝起きでドアを開けると、鈴音がいた。もう私服に着替えている。手には——何も持っていない。タッパーの口実は、とうに捨てた。
「……おはようございます」
「……おはよう」
「……朝ごはんは」
「まだ」
「……」
沈黙。彼女の視線が、俺の寝癖が立った頭と、皺だらけのTシャツを数秒かけて走査した。
「……待っていいですか」
「上がれよ」
朝食を作った。目玉焼き、ウインナー、味噌汁、白飯。シンプルだ。朝は手を抜く。
——はずだった。
味噌汁の出汁を引いている自分に気づいた。朝なのに。インスタント出汁を使えばいいのに、昆布と鰹を鍋に入れている。
目玉焼きを焼く。火加減を調整している。白身の端がカリカリになり、黄身はとろりと半熟。蓋をして蒸すこと三十秒。
——ちょっとした目玉焼きで勝負している自分がいる。相手は、あの舌だ。料亭仕込みの意地が、朝食でも手を抜かせてくれない。
鈴音は目玉焼きを箸で割った瞬間、黄身がとろりと流れるのを見て——まばたきをした。普通のまばたきではない。いつもの「味覚全開モード」の、瞬きの減少。
……目玉焼きにも反応するのかよ。
◇
昼過ぎ。鈴音は帰らなかった。
いつもなら食事のあと一時間ほどで帰るのに、今日はちゃぶ台の前に座ったまま、持ってきた文庫本を読んでいる。静かだ。ページを繰る音だけがする。
俺は台所で昼飯の仕込みをしていた。冷蔵庫の中身を確認しながら、焼きうどんの段取りを頭で組む。
「……みなとさん」
「ん」
「……お昼は、何になりますか」
聞いてきた。当たり前のような顔で。もう「今日のごはん、分けてくれませんか」とすら言わない。「何になりますか」だ。確定事項として食べる前提で聞いている。
「焼きうどん」
「……」
文庫本のページが、かすかに震えた。嬉しいらしい。
◇
焼きうどんを食べ終わった後、鈴音はまた文庫本に戻った。俺は自室のベッドに寝転がってスマホを見ていた。
健太からLINEが来ていた。
『リリの配信、GW中は休みだってさ。コミュニティで告知出てた。「個人的な休暇をいただきます」だって。リリにも休日あるんだな〜』
個人的な休暇。
——俺の部屋で文庫本を読んでいる女のことだよ、それは。
リリのコミュニティページを開いた。最新の投稿。
【GWのおしらせ】
れんきゅうちゅうは、おやすみします。
たいせつなよていがあります。
よていというか。
ただ、いつもの場所で、ごはんを食べるだけですけど。
それが、いちばん、たいせつなので。
——ひらがなだ。
またあの、知性を放棄したひらがなの羅列。そしてコメント欄は、案の定沸騰していた。
『「たいせつなよてい」wwwwww リリの「よてい」ってなに?????』
『「ただごはんを食べるだけ」で一週間休むの重すぎる。完全に恋だろこれ』
『最近のレビューの「家庭料理推し」的に、数週間前から神料理人に餌付けされてる説あるな。ラブコメかよ』
……フィクションのテンプレみたいな事態に巻き込まれているのは俺のほうだと言いたいが。
スマホから目を上げた。ちゃぶ台の向こうに、鈴音が座っている。文庫本を膝の上に置いて、窓の外を見ていた。午後の光がカーテン越しに差し込んで、彼女の黒髪を透かしている。
知っている。お前がリリだということを。
俺の料理を星一千万にしたことを。配信で泣いたことを。「好き」と言えたことを喜ぶ投稿を夜中に書いていたことを。
そして——俺の部屋で過ごすGWが、「いちばんたいせつ」だということを。
全部知っている。
知っていて——知らないふりを、している。
◇
夕食は、オムライスにした。
チキンライスの味付けはケチャップだけでは薄い。ウスターソースと少量のバターを加える。玉ねぎは強火でさっと炒め、鶏肉は小さめに切って中までしっかり火を通す。
卵は三つ。フライパンに流し込んで、箸で大きくかき混ぜる。半熟のうちにチキンライスを乗せ、フライパンの端を叩いて返す。
とろっ、と卵が滑り落ちる感覚。千回は練習した。実家の賄いで。
皿に盛ったオムライスにケチャップで——何も書かない。ハートとか文字とか、そういうことはしない。ケチャップは横に添えるだけだ。
「——どうぞ」
鈴音の前に置いた。
彼女は——オムライスを、じっと見つめていた。
五秒。十秒。
スプーンを取らない。
「……どうした」
「……いえ」
「食べないのか」
「……食べます」
スプーンを手に取る。卵の端を割る。トロッと半熟がこぼれた。
一口。
目を閉じた。
七秒。
目を開けた。
——泣いていた。
無表情のまま——泣いていた。
目尻から、一筋だけ。涙が頬を伝って、顎先で止まった。口は閉じている。鼻も啜っていない。一筋の涙だけが、人形のようなその顔を——生きた人間の顔に変えていた。
「鈴音——」
「……すみません。……なんでもないです。……ただ」
スプーンを握ったまま、彼女はうつむいた。
「……おいしくて」
黒髪が頬を隠す。それ以上の言葉は出なかった。
俺はティッシュを一枚引き抜いて、何も言わずにちゃぶ台の上に置いた。
鈴音はそれを取って、目元を押さえた。音もなく。
三十秒ほどして、スプーンを握り直した。そのまま——オムライスを食べ始めた。いつもよりずっとゆっくり。一口ずつ。時間をかけて。
完食したとき、涙はもう乾いていた。
「……ごちそうさまでした」
「お粗末さまです」
数十回は交わしたやり取り。
でも今日は——「お粗末さま」と言った俺の声が、少しだけ掠れた。
◇
GW最終日の夜。
鈴音は、帰り際に玄関で立ち止まった。
「……みなとさん」
「ん」
「……明日から、また大学です」
「そうだな」
「……でも、夕ごはんは」
「来りゃいいだろ。いつも通り」
「……はい」
ドアに手をかけたまま、振り返らずに。
「……このGW、ありがとうございました」
「礼を言うようなことじゃないだろ。飯食っただけだ」
「……ただの、ごはんじゃ、なかったです。私にとっては」
ドアが閉まった。鍵の音。
廊下が静かになる。
——俺にとっても、ただのごはんじゃなかった。
それは言わなかった。
台所に戻る。洗い物がシンクに残っている。一人だった頃とは違う、二人分の食器。いつもの二人分だ。
水を出す。スポンジに洗剤を含ませる。
一ヶ月前、このアパートに越してきたとき。一人分の洗い物を、一人で片付けていた。それがいつの間にか、隣の部屋の無口な女が布巾を持って横に立つようになった。
俺は——この女の胃袋を握っている。
そして滑稽なことに、俺の方が彼女の正体(秘密)を握っているはずなのに、実際には俺の方が彼女に「秘密」という名の重石を握らされている。俺が料亭の跡取りだということ、そこから逃げ出してきたこと。そして、鈴音が『リリ』だと知ってしまったこと。それらを黙っているという共犯意識めいたものが、俺を彼女に縛り付けている。
胃袋と秘密。握りあっているのに、互いにそれを口にしない。
蛇口を閉めた。最後の皿を棚に戻す。
鈴音が拭かなかった分の皿は——なんだか、少しだけ乾きが悪い気がした。




