第13話 特製ざるそばと、少し多めのつゆ
約束通り、夜はそばにした。
乾麺ではない。近所の製麺所で打ちたてを買ってきた。実家で使っていた蕎麦粉の産地とは比べようもないが、鮮度だけは確かだ。
つゆを作る。返しから仕込むのが理想だが、時間がない。かえし醤油はみりんと砂糖を煮切ったものに醤油を合わせ、せめて三時間は寝かせたい。朝のうちに仕込んでおいた。
出汁は厚削りの鰹節を水から煮て、アクを引きながら二十分。昆布出汁と合わせる。力強い出汁が要る。蕎麦は繊細な食べ物だが、相手が鈴音である以上——出汁の密度が物を言う。
蕎麦を茹でる。太さを見て時間を決める。今回は一分半。ザルに上げたら流水で——手もみ洗い。ぬめりを取って、氷水で締める。麺が一本一本立つまで。
薬味はネギと大根おろし、わさびは本わさびをおろした。チューブでもいいが、鈴音の舌には——見抜かれる。
六時五分。チャイム。ドアを開ける。
鈴音がいた。今日はパーカーではなく、薄手のカーディガンを羽織っていた。大学で俺と一緒にいたことを意識しているのか、少しだけ身なりが変わっている。
……気のせいか。
「……そば」
「約束通り」
「……匂いが、もう」
入ってくる。定位置に座る。ざるの上に盛られた蕎麦を見て——かすかに息を飲んだ。
麺の艶。茹で立ての水切りが完璧な蕎麦は、一本一本が光を弾く。
◇
食べ始めた。
鈴音は蕎麦をつゆにほんの少しだけ浸して、啜った。
音が立った。蕎麦は音を立てて啜るのが正しい。空気と一緒に香りを含ませるためだ。彼女はそれを——知っている。
一口目。二口目。
三口目で——箸を持つ手が、止まった。
また来た。あの反応だ。
だが今回は——今までと違った。
目を閉じた。二秒ではない。五秒。七秒。
長い。今まで見たことのない、長い沈黙。蕎麦を口に含んだまま、目を閉じて——咀嚼している。
飲み込まない。噛み続けている。蕎麦の風味を、舌の上で最後まで確かめているのだろう。
十秒。飲み込んだ。
目が開いた。
鈴音が俺を見た。
正面から。初めて——真正面から、俺の目を見た。
いつもは胸元あたりに視線を落としている。目を合わせてくれたことは、数えるほどしかない。
それが今——まっすぐに、俺の目を見ている。
ガラス球の瞳の奥に、たくさんの言葉が渦巻いているのが見えた。何か言いたい。伝えたい。けれど口が開かない。
「……」
唇が動く。音にならない。
五秒。十秒。
鈴音は目を伏せた。結局、言葉にはならなかった。代わりに——箸を取り直して、もう一口、蕎麦を啜った。
その速度は——今までで、いちばん、ゆっくりだった。
いつもは加速するのに。今日は——ゆっくり食べている。
味わっている。一口一口を、惜しむように。
◇
食後。
洗い物を終えた後、お茶の時間。いつもの流れ。
だが今日の鈴音は、湯呑みを持ったまま——ちゃぶ台に頬杖をついた。初めて見るポーズだった。無防備だ。
「……みなとさん」
「ん」
「……今日、大学で」
「うん」
「……私のこと、変だと思いましたか」
大学で孤立していることを言っているのだろう。
「変? 何が?」
「……一人で座っていたこと。……誰とも話さない、こと」
「別に」
正直に答えた。変だとは思わなかった。一人でいることが好きな人間はいる。俺だって、実家の賑やかさから逃げてきた口だ。
「それより——爪、大丈夫だったか」
「……え」
「中庭で座ってた時、手を握りすぎてた。爪が食い込んでたろ」
沈黙。
鈴音は湯呑みの中を見つめた。長い沈黙だった。一分近く。俺は待った。
「……聞こえていました。周りの声」
「うん」
「……慣れています」
「慣れてるのと、平気なのは、違うだろ」
また、沈黙。
鈴音の瞳が——揺れた。無表情は崩れない。けれど目の奥が、ほんの少しだけ——潤んだ。
泣くのかと思った。泣かなかった。
代わりに——彼女は湯呑みを両手で握り締めて、こう言った。
「……ここが、あるので。……大丈夫、です」
ここ。
俺の部屋を指しているのか。この食卓のことか。
「……ごはんを食べる場所が、あるので」
小さな声。だが——今まで聞いた中で、いちばん、はっきりとした声だった。
湯呑みの中のお茶が揺れていた。彼女の手が、少しだけ震えていたからだ。
「……おかわり、淹れるか」
「……はい」
立ち上がって、やかんに火をつけた。背中を向けている間に、彼女がどんな顔をしているのか——見えなかった。
見なくて、よかった。たぶん。




