月光の下で
宿の前で、俺はフラウが差し出してきた手を握った。
「目をつぶって、カズキ」
言葉に従って目を閉じる。
「じゃあ行くよ。いいって言うまで目は開けないでね」
「わかった」
うなずくと同時に手が引っ張られた。逆らわずに前に出る。
手の先で走り出す気配。
俺もそれに合わせて駆け出した。
まぶたの裏の暗闇の中をずっとまっすぐ、まっすぐに進む。
このまま行けば通りの向こうに突き当たって壁に激突するはずだ。
だが俺は足を止めようなんて少しも思わなかったし目も開けなかった。
そのままの勢いで壁にぶち当たった。
少なくとも俺はそう思った。
だが衝撃はなく、ただ風が頬を強めに叩いただけだった。
なおも走る。
道は平坦なままだったけれど、街の喧騒は消えていた。
街の中よりもずっとずっと開けた無音の地平にいるのを感じる。
自分の足音も何も聞こえない。
ただ感覚だけが加速する。
一直線に。遠い遠い距離を越えて。
シエルの元へと。
「――――もういいよ」
フラウの声を聞いて俺は立ち止まった。
ゆっくりと目を開く。
俺とフラウは、いつの間にか街の外にいた。
薄暗い街道の上だ。日が暮れていたらしい。
まるで耳にも蓋がされていて、それが目を開けるのと一緒に取り去られたように、聞こえていなかった音が聞こえるようになった。
草が擦れる音。虫の声。
それからフラウのため息。
「ふぃー……つかれた……」
つないでいた手を放してフラウがしゃがみこんだ。
心底つらそうなその背中をさすってやりながら俺は言った。
「ありがとうな」
「うん」
それからフラウは顔をあげないまま、道の向こうを指さした。
「あっちのくぼんでるところに小屋があるの。シエルはそこに」
「わかった」
「見張りもいるから気を付けて」
「おう」
小さなフラウを一人残していくことに不安がないでもなかったが、こればかりは仕方ない。
できるだけ手早く済ませて戻ろう。
俺は決意して片手剣を鞘から引き抜いた。
あとはまた風にでもなったような心地で、するりと闇の中に踏み出した。
◇◆◇
「ぐ……っ」
こめかみに剣の柄頭の一撃を食らわせてやると、敵は低くうめき声を上げてよろめいた。
足元がおぼつかなくなったところを引きずり倒し、その首に腕を巻き付けて締め上げる。
脳を揺らされていた見張りは声も出すこともできず、すぐにぐったりと意識を失った。
「ふう……」
俺は闇に潜んだまま小さく息をついた。
これで七人の見張りを黙らせた。
あの倉庫の地下室にいた男たちの人数からして、多分このあたりで打ち止めだろう。
茂みから這い出して小屋の方をうかがう。
見た限りでは勘づかれたような気配はなかった。
とりあえずは順調のようだ。
残りはアロンと、いたとしてもあと一人か二人。
どちらにしろ小屋の中でシエルと一緒にいるだろう。
俺は低い姿勢のまま ゆっくりと小屋に接近していった。
ずいぶん無茶苦茶しているなと自分でも思う。
どう考えてもシエルはこんなことは喜ばないだろう。
きっとはたからは現実を認めたくない俺ひとりだけが、トチ狂った暴挙に出ているだけにしか見えないはずだ。
それでも意味があると信じているからここにいる。
そうじゃなきゃフラウを巻き込んでまでこんなことはしない。
小屋のすぐそばまで到達した。
月の光を避けて、壁面に張り付くように立つ。
夜の空気に息を染み込ませるように、慎重に呼吸する。
耳を澄ませて音を探るが、小屋の中からはなんの気配も感じ取れなかった。
ゆっ……くりと戸口まで移動する。
近くまで来てわかったが、小屋はかなりボロい。
かつては畑仕事の道具や刈り入れた作物を置いておくためのものだったんだろうが、今はもう壁板が腐りかけている部分も多かった。
よく見るとドアも少し傾いてズレていた。
俺はその隙間からそっと中を覗き込んだ。
その時だ。
「……っ!」
ずん、と左胸に後ろから重い衝撃が突き抜ける。
一瞬意識がブラックアウトした。
剣を取り落としそうになって、しがみつくように必死に柄を握りしめる。
おかげで再び乱暴な衝撃が体に走って転がされても、武器を失わずに済んだ。
「へえ……」
面白がるような声がする。
俺は倒れて突っ伏した地面からゆっくりと顔を上げた。
アロンがいた。
月の光に銀の髪をかすかに輝かせ、肩に長剣を担いでいる。
その刃に血がべったりとついていた。
俺の血だ。体を見下ろすと、ちょうどシャツの心臓の位置に、鋭く穴が開いていた。
「おかしいね。ちゃんとど真ん中を貫いたはずだけど。なんで生きてるんだい?」
俺は無言で起き上がった。
小屋の方を見やる。
確かに誰もいなかった。そのはずだ。
俺の視線の意味を察して、アロンが言った。
「ああ、大したことじゃないよ。君が戸口に気をとられているうちに小屋を出ただけさ。それから背中をぐっさり」
「……」
大したことないわけがない。
あの戸口以外に小屋に出口なんかなかった。
背後を警戒していなかったわけでもない。
一体どれだけの手並みだ。
「僕の問いには答えてくれないんだね。残念だ」
いうほど惜しくもなさそうにアロンが言った。
剣の腹で自分の肩を叩くようにして夜空を見上げる。
「いい月だ。ホロアが滅んだ日の夜を思い出すよ。ちょうどこんな晩だった。街の中なのになんの音も聞こえなくてね。誰もかれも死んじゃったから」
俺は無視して剣を握る右手の具合を確かめた。
刺された傷は治ったし、手に影響はない。戦える。
「何もかも理不尽な日だった。正義が勝たず、罪のない民が死に、僕らの国は滅んだのにそんなときにも月は綺麗だった」
「シエルに会えるか?」
俺が訊ねるとアロンは月から俺に目を戻した。
そして心底不思議そうな顔で言う。
「君は来ないと思ってたよ」
俺は苦笑した。
「そうだろうな」
「なんで来たんだい?」
「会うためだ。どうしても会いたいんだ。あいつが嫌だってんならすぐに帰る。でもその前に顔を合わせて話がしたい」
「それはちょっと無理だなあ」
鼻の頭をかきながら、困ったようにアロンは言った。
「まず彼女は今ちょっと眠ってるんだ。できれば起こしたくない」
「そこを何とか頼む」
「いやあ無理無理。魔法の眠りはちょっと深い。それに、僕は彼女を帝都に連れて行かなきゃならない」
「帝都?」
「ちょっとした依頼でね。お偉いさんが彼女の身柄をご所望だ」
「……シエルを売るってことか?」
「人聞きが悪いね。ただの取引だよ」
アロンは微笑を浮かべた。
一滴の悪意も混ざっていない、静かな笑みだった。
俺は心の底から腹が立った。
「シエルはお前のことが好きなんだぞ」
「……」
アロンの目が閉じられた。
その顔に浮かんだ表情が何なのかは計りかねた。
一番近いのは諦め、だろうか。
だが彼が再び目を開いたときにはもうそこには暗い色はなかった。
「死なないようなら首を落とそう。それなら追っては来られないだろう?」
担いでいた剣をすっと垂らす。
もう話は終わりということだろう。
俺も剣を持つ右手を前に出して構えた。
勝負の時だ。
「……」
距離を置いてにらみ合う。
俺はアロンの構えに目を凝らした。
彼は力を抜いて自然体だ。
無駄な緊張はなく、かといってたるみもない。
じっと見つめていると吸い込まれるように錯覚する。
構えに偏りがなさ過ぎて、頼りにする目の支点が取れないのだ。
これは無理だな、と俺は悟った。
真正面から行っても絶対に勝てない。
かといってからめ手が通じる相手でもないだろう。
格が違う。
俺はまぶたを半分下ろした。
その分目の前の現実が遠ざかり、過去からの声が聞こえてくる。
「格上とやり合うときはだな、カズキ。まずは認めろ。お前はそいつよりも弱い。それが事実であるなら、認めるところからしか始まらない」
じいちゃんの声だ。
弟子のやる気を削ぐような身も蓋ももないことを平気で言う偏屈屋の声。
ただしその言葉はいつだって正しかった。
だから信用はできる。
「認めたら次は数えろ。お前がそいつより優位な点を一つ残らず数え上げろ。見落としは絶対にするな。勝ちたいのなら絶対にだ――」
俺が持っているアドバンテージ。
そう多くはない。
今構えている魔剣の威力。
それを相手は知らないということ。
それから、相手が思っているよりは俺のシエルへの想いは強い。
もちろんそれら全部を合わせても、勝ち目は果てしなく薄い。
だが、全くないわけじゃない。
空気が動いた。
「っ……!」
踏み出して剣を振るう。
ほんの軽く、こするぐらいの手ごたえ。
手傷を負わせたわけじゃない。
見事なまでに鮮やかにいなされただけだ。
ついで手首の内側に鋭い痛みが走る。
腱をやられて右手の握力を失った。
握っていた剣が支えを失って手から滑り落ちた。
終わりだ。
後は彼の宣言通り、首を刎ねられて戦闘不能。
もし死ななかったとしても、彼らを追うことは不可能になるだろう。
シエルとはお別れだ。
……だが、そんなのは認められるわけがない。
「っ……!?」
アロンの驚きの気配が伝わってくる。
彼の剣の一閃を、俺は低く低く、ほとんどひざまずくほどに身をかがめて避けていた。
もちろんこのままでは次の返す刃で今度こそ首を斬られて終わりだ。
だが、俺の口は、落下途中の片手剣の柄を受け止めて、しっかりとくわえていた。
そして強く念じる。
力の開放を。
片手剣は暗い光を放ち、長大な刃を展開、魔剣本来の姿に戻る。
柄頭の宝石の赤い輝き。
その瞬間驚くほど体が重くなって意識を失いそうになるが、ただただ根性だけでつなぎとめる。
俺は首と体のひねりだけで魔剣を切り上げ、刃をアロンに叩きつけた。
月光の下、壮絶な悲鳴が響き渡った。
俺はそれを聞き届けて、地面に倒れ伏した。
体が動かない。
このままとどめを刺されたら終わりだな、と。
そんなことを考えながら、今度こそ俺は意識を失った。




