シエルの涙
その日のグノーサも、やはり華やいだ空気に包まれていた。
宿のシエルの部屋からは、相変わらず祭りの喧騒や楽器の演奏の音が聞こえる。
俺はここ数日と同じように、今日も窓から街の景色を眺めていた。
別に、何か変わったものが見えるわけもない。
いつもと同じく凸凹と広がる建物の群れがあるだけだ。
他にやることもないから窓の縁に頬杖を突いている。
暇を持て余しているともいえるが、正確には俺は待っていた。
窓際から振り返ると、シエルがベッドで眠っていた。
すうすうと寝息を立てて、とても穏やかな寝顔だ。
だが、もう二日ほども意識を失ったままだった。
アロンと戦った晩。
意識を失っていた俺はフラウに起こされて目を覚ました。
俺は生き残っていた。
とどめを刺されはしなかったということだ。
じゃあアロンを倒したかというとそうでもなく、彼の姿はどこにもなかった。
最後の手ごたえからしてかなりの深手を負わせたとも思ったが、血の跡などはわからなかったから俺の思い過ごしだったのかもしれない。
シエルの方はというと、やはり小屋の中にいた。
俺たちは彼女を助け出して、グノーサへと引き返した。
宿に着いた時にはもう夜は明けかけていて、彼女をベッドに寝かせた後、俺も気絶するかのごとく眠りに落ちた。
それから起きて、そしてずっと待ち続けている。
「ん……」
その時、シエルのまぶたが震えた。
小さく息を吸って、それからゆっくりと目を開く。
その碧の瞳が、俺を捉えた。
「カズキ……?」
俺は座っていた椅子から立ち上がった。
ゆっくりとベッドの方に歩いて行く。
「アロンは……?」
その問いを聞いてから。
俺はシエルに飛びかかった。
シエルの右手と肩をつかんでベッドに組み敷く。がっちりと力をこめて押さえつける。
後は、奇声を上げて暴れる彼女が諦めるまで、ひたすら数を数えていた。
彼女が多少なりとも現実を受け入れるまでの時間の長さを。
痙攣するように、細い息を繰り返しながらシエルが動きを止めた。
彼女はがちがちと鳴る歯の間から、震え声で言った。
「わ、わたし、アロンに見捨てられたんだ……」
俺は首を振った。
「違う」
それから彼女がきつく握った右手から、ナイフをそっと取り上げた。
それは、彼女の枕元に鞄があったのだが、その中から彼女が抜き取ったものだった。
それで自分の首をかき切ろうとしたのだ。
「違わない……わたしは死んだ方がいい……」
「違うよシエル」
「だって、わたしは! アロンのためにずっと旅をしていたのに! 裏切られるのなら、死んだ方がマシだった!」
じわりと涙が浮く瞳をまっすぐ見返しながら、俺はやっぱりそれでも首を振った。
何度も、何度も。
「違う。お前は生きているべきだ」
「なんで」
「なんでとか聞くな」
そうだ、大層な理由なんか必要なものか。
誰か一人でも生きていてほしいと願う人がいるのなら、それだけで十分じゃないか。
シエルの上からどいてベッドを降りる。
彼女はもう自分を傷つけようとはしなかったけれど、それでも細い嗚咽の声が止まることはなかった。
俺は天井を見上げた。
それから、言葉を選びながら口を開いた。
「……あのな、昔、元の世界でだけどな。俺、外で絵を描いてたんだよ」
顔を腕で覆ったシエルが聞いているかはわからなかった。
だが、そのまま続けた。
「公園っていう、憩いの場で、こっちで言うところの城門前広場みたいなところがあるんだけど、その日はいろんな人がそこにいて絵の題材にはちょうど良かったんだ。実際、いい絵が描けた。すごくいい絵だ。みんな自然に、幸せそうに笑ってて、なんの不安も持ってないって感じで、それら全部を絵に写し取れたって感じたんだ。でも……」
そしてうつむく。
肩から力が抜けるのがわかる。
「家に帰ってバラバラにして捨てたよ。嫌われ者の俺には遠過ぎる世界だったから」
「…………」
シエルは答えなかったが、それでも聞いていることはわかった。
「どうあがいたって、俺はその景色の中に決して入れないってわかってしまった。どんなに手を伸ばしても手に入らない、それを知ってしまったんだ。だからそれ以来人の絵は描いてない。これが人物画を描かない本当の理由だ」
あの時の羨望と、嫉妬と、諦めと、そして絶望の味は決して忘れない。
俺は、変えられないものを変えようと思うことを、やめた。
「でもな。嫌われ者だってのも悪いことばっかりじゃないって、今はそう思えるんだ」
俺は振り向いて、壁に立てかけてあったキャンバスを持ち上げた。
二日ぽっちでできるかわからなかったが、思いの他上手く描けたその絵を。
差し出す。
「シエルに会えた」
それが、彼女にどう見えたかはわからない。
だが、それでも伝わったと思いたい。
それはベッドで眠る、シエルの絵だった。
粗末な寝具の中ではあるが、そこで眠る少女の寝顔は、まるで天使のように安らかな表情をしていた。
不安もなく、裏切りも知らず、ただ安心と幸福に包まれていた。
愛らしくて、そして綺麗だった。
「やっぱり描いた奴の視線がにじみ出るよな。上手く描けなくてごめんな」
でも、これが俺にとってのシエルだ。
一生懸命描いたから。
受け取ったシエルは、呆気にとられたような表情でその絵を見つめ。
それから額を押し付けてまた嗚咽を漏らした。
もう死ぬなんて考えないでほしかった。
でも、後はシエルの決めることだ。
俺はそのまま部屋を後にした。
背中には、ずっと泣き声が聞こえ続けていた。




