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迎えに行こう

 鼻先に、何か冷たいものが当たった。

 俺は小さくうめいてからまぶたを持ち上げた。


 こちらの顔を覗き込んでいる丸い瞳がある。

 その持ち主の猫は、もう一度チロリと俺の鼻の頭を舐めてから走り去っていった。


「……」


 ぼーっとしたまましばらく空を見つめる。

 少し曇りがちの空だ。

 日は陰ってあまり光は強くない。


 と、ようやく気付く。

 俺は野外に寝転がっている。


 痛む頭を押さえながら体を起こす。

 周りを見ると、四方を窮屈な壁に囲まれた猫の額ほどの狭い庭だった。

 見覚えがある。

 昨日、レジスタンスの地下室を訪れる途中で通った場所だ……


「……昨日?」


 違和感があった。

 いつの間にか夜が明けている。

 ああ、いや、そうか。どうやら俺は意識を失っていたらしい。


 ……だが待て、それならそれでおかしい。

 レジスタンスたちはどこに行った?

 俺は放っておかれたのか?

 そして……あいつは?


「シエル……?」


 俺は小さく声を上げた。

 音はその狭い空間で反響すらせずに、どこかへと吸い込まれて消えた。

 返事は聞こえてこなかった。




◇◆◇




 その後、もう一度地下室に降りてみたががらんとなんの痕跡も残っておらず、もぬけの殻だった。

 ふらふらする足取りで宿に戻ると、フラウが戸口で待っていた。

 何か言おうとするのを手で制して、俺は二階の部屋に入って半日眠った。


 昼過ぎに目を覚まして、シエルが戻ってないことを確かめて。

 俺はその時ようやく少し泣いた。

 フラウに聞かれないように、部屋の中で声を押し殺して、めそめそとみっともなく泣いた。


 シエルは行ってしまった。

 自分の意志でかどうかはわからないけれど、俺の手の届かないところに。

 ずっと遠くに。


 ふらりと外に出た。

 外は祭りも期間の中盤に入っていて、通りはかなり混雑していた。

 気の入らない足取りでその中を歩く。


 二人の音楽家が笛と弦楽器とで合奏している横を抜ける。

 役者たちが道の真ん中で繰り広げる劇の横を抜ける。

 子供が輪投げのゲームをしている横を抜ける。

 二人で手を取り合って踊っている男女を見て一瞬足が止まるが、一瞬だけだった。その横を抜ける。


 立ち止まらずに歩き続ける。

 日常から切り離された空間の中を、熱に浮かされたようにただただ進む。


 なんだか心が空っぽだった。

 胸の内側に何も入っていない。

 冷たい風が吹き抜けている。


 寂しいとはこういうことかと思った。

 長らく忘れていた。

 ずっと考えないようにして生きてきたから。


 シエルとフラウに出会ってからだ。

 俺はいつの間にか心が隙だらけになっていた。

 それは嫌われ者にとって致命的な弱さだって知っていたのに――


「カズキ」


 シエルの声に呼ばれた気がして、俺ははじかれるように振り返った。

 足を止めて見回す。

 だが、あるのはむせ返るような人の群れだけだ。

 そこにシエルがいるわけがない。気のせいだった。


「お兄ちゃん――――」


 今度は妹の声が聞こえた。

 ただ、これはただの記憶の中の声だとすぐにわかった。

 あれは、そうだ、彼女が自分の死のちょうど一週間前に言った言葉だった。


「お兄ちゃんはさ、これからずっと一人きりで生きるつもりなの?」

「え?」


 病室での会話だ。

 この時はまだ容態が急変する予兆なんかなくて、妹は気まぐれに俺をからかってるだけなんだと思っていた。

 こいつ俺が嫌われ者だって知っていて意地悪だな、ぐらいに。

 今思えば、妹だけは自らの死期が近いことを悟っていたのかもしれない。


「いや、お前なあ、俺はそういうのいいんだよ。ていうかお前を数に入れさせろよ。一人じゃねーし」


 軽く冗談風に流そうとした。 

 妹はそんな俺を叱るような口調でたしなめた。


「そんなこと言って、わたしだってずっとお兄ちゃんと一緒にはいられないんだからね」


 俺は肩をすくめて苦笑した。


「お前はどっかのオカンか」

「本当にお母さんだったらよかったけど。そうじゃないからさ」

「確かにお前が母親だったら口うるさそうだしやだなあ」

「ねえ、わたしは本気で言ってるんだよ」

「俺のオカンになりたいって?」

「お兄ちゃん!」


 軽口に強い口調で返されて、俺は思わず口をつぐんだ。

 妹は真剣な目つきで俺をにらみつけた。


「わたしはお兄ちゃんを心配して言ってるの」


 本当は冗談のまま流したかった。

 体の弱い妹が、いつかはいなくなってしまうなんてわかりきった事実だったから、できるだけ考えないようにしていたのだ。

 ハルカを失うなんて考えたくなかった。


「……そうは言ってもさ、ハルカ。俺と一緒にいてくれる奴なんていないよ。俺なりに努力したこともあったけどさ、全部無駄だったし。裏切られただけだった。だから、俺に友達なんて……」


 スツールに腰かけたままうつむく。

 その時妹がすっと手を伸ばしてきて、膝に置いたままの俺の手を優しく包み込んだ。

 顔を上げると、ハルカは小さく微笑んでいた。


「だったらさ、せめて裏切られても好きでいられる人を見つけようよ。大丈夫、お兄ちゃんなら絶対に見つけられる。だってわたしのお兄ちゃんだもん――――」


 ――俺はいつの間にか、早足でグノーサの道を歩いていた。

 歩いてきた道を逆にたどって、まっすぐに。


 二人で踊る男女の横を、輪投げの子供の横を、役者たちの横を、二人の音楽家の横を。

 次第に早足が駆け足になって、全速力で走っていた。


 宿の前まで戻ると、しゃがんで待っていたフラウが立ち上がる。

 そして言う。


「おかえり、カズキ」


 俺は息を切らしたまま、手の甲で汗を拭った。

 苦しくて何も言えない。が、無理矢理息を整える。


「俺さ。シエルは、自分の意志で行ったかもって思ってるんだ」

「うん」


 フラウがうなずく。

 俺はそのまま続けた。


「だって、シエルはホロアの人間で、旧知の人たちがいるあっち側の方がふさわしいし、アロンって奴のことが好きみたいだし……俺はシエルが俺と話したがってるのを拒んじゃったし……! 俺には止める資格なんてないし!」


 この狭い通りには俺たち以外誰もいない。

 悲鳴のような俺の声を聞くのはフラウしかいない。

 フラウはうなずく。


「うん」


 そして静かに言う。


「それで、どうしたいの?」

「それでももう一度会いたい」


 俺はきっぱりと言った。

 やけくそ気味に、言葉を投げつけるように。


「会って、あいつが俺になんて言おうとしてたのか確かめたい。あいつの、絵を描きたい。シエルは、裏切られても隣にいたい奴だから。手伝ってくれるか?」

「まかせて。フラウは神さまに好かれてる。なんでも見えるしなんでも聞こえる。行きたいところはどこでも行ける」


 フラウはアロンの来訪以来初めての笑顔を見せた。


「行こう。シエルを迎えに」

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