第2話 刺繍見本帳の欠けた頁
私は衣装室から誰もいなくなるのを待って、夜の宮廷衣装局に残った。
抜き取られた頁の痕を指でなぞる。刃は丁寧に入れられていた。慌てて破いたのではない。最初から、この頁だけを消すつもりだったのだ。
青銀百合の頁にだけ。
台帳棚から春祈祭用の布票を出して並べる。王都衣装局に届いた青銀糸は三束。記録ではすべて北方織房産の正規品。だが、さっきセレナが着ていた礼装の光り方は違った。正規品は光を面で返すのに、あれは線でぎらつく。銀の被膜が厚すぎるのだ。
「まだ帰っていなかったのか」
低い声に振り返ると、ルシアンが戸口に立っていた。
「見本帳の頁が抜かれています」
「明日また探せばいい。今夜はもう休め」
「探すのではなく、誰が抜いたかを確認します」
私が布票を持ち上げると、ルシアンは明らかにうんざりした顔をした。
「イリス、明日は大事な立ち会いがある。セレナを不安にさせるな」
「不安にさせているのは私ではなく、偽物の礼装です」
私は彼の前に布票を差し出した。
「北方織房の青銀糸は、束の封蝋に必ず北の星印が二つ並びます。でも今夜の礼装に使われていた糸は一本ごとの硬さが均一すぎる。工房ではなく、王都の量産機で撚ったものです」
「君は糸を見ただけで、そこまで決めつけるのか」
「決めつけではなく確認です」
その瞬間、扉が開いた。
父アルフレート伯爵と義母ミレイユ、それに衣装局の上役まで揃っている。妙に手際がよかった。私がまだここにいると、誰かが伝えたのだろう。
「イリス」
父は疲れた顔で言った。
「セレナが泣いている。お前が礼装に細工をしたと」
「私が?」
「見本帳から該当頁を抜き、針数の違いをでっち上げたそうだ」
義母がため息をつく。
「昔から、あの子にばかり注目が集まるのが気に入らなかったのでしょう」
私はあまりの幼稚さに、一瞬言葉を失った。
「見本帳は私の机にありました。誰でも触れます。だからこそ施錠の申請も出していたはずです」
「申請書など見ていない」
上役が冷たく言い、別の書類を机へ置いた。春祈祭礼装の最終確認欄。そこには、私の署名付きで『青銀百合の外輪は三十八針へ変更』と書かれていた。
筆跡は似せてある。でも、長い一の払いが少しだけ短い。これは私ではない。
「偽造です」
「都合が悪くなると、何でも偽造か」
ルシアンがそう言った時、私は彼の顔をまっすぐ見た。
「あなた、知っていたのね」
彼はすぐには答えなかった。
その沈黙が答えだった。
「セレナは春祈祭の舞台に立つ。それが家のためであり、宮廷のためだ」ルシアンは静かに言う。「君は優秀だが、主役に向く華がない。だから裏方に徹してくれればよかったんだ」
「裏方に徹していたから、数字の嘘に気づいたのよ」
父が机を叩いた。
「もういい。イリス、当面の職務停止だ」
「祭礼まで残り三日です。今止めたら、本当に礼装の出所を追えなくなる」
「その必要はない」
上役は私の衣装局印を差し出せと言った。
私はゆっくりと印箱を渡す。
母が死んだ後も、これだけは自分の仕事として守ってきた印だった。
「明朝、正式処分を伝える」
そう告げられ、私は衣装室を追い出された。
扉が閉まる寸前、セレナの笑い声が奥から聞こえた。
あの子はもう、私が黙ると思っている。
けれど抜き取られた頁は、消えたのではない。誰かが持っているだけだ。
そして持ち出した者は、まだ縫い目のどこに嘘が残るのかを知らない。




