第14話 返せと言う元婚約者
ルシアンが北へ来たのは、雨の朝だった。
黒い外套を濡らしながら工舎へ入ってきた彼は、王都にいた頃と同じく整っていた。けれど目だけが焦っている。
「イリス、話がある」
「私は仕事中です」
「見ればわかる」
彼の視線は私の机の綴りへ向いていた。
「それを渡せ」
「嫌です」
即答すると、彼は一瞬だけ眉をひそめた。
「北にいる間に随分と頑固になったな」
「元からです」
ルシアンは苛立ちを隠さず、一歩近づく。
「君にはわからない。春祈祭は家と王都の均衡を保つ舞台なんだ。セレナが立つことで全て丸く収まる」
「誰の丸ですか」
「伯爵家、祭礼管理室、衣装局、全部だ」
「北方織房の賃金も、本物の青銀糸も、私の継承印も踏み潰して?」
ルシアンは一瞬だけ口を閉ざし、それから声を低くした。
「イリス。君は優秀だ。だが表に立つ人間ではない。裏で整え、支える方が向いている」
「だから私から頁を抜いたの?」
「君が手放さないからだ」
吐き出された本音に、逆に胸が静かになる。
「やはりあなたでしたね」
「セレナを守るためだった」
「違う。あなた自身の昇進のためよ」
その時、背後で靴音が止まった。クラウスだ。
「俺の工舎で、俺の監査官に何の用だ」
ルシアンが顔をしかめる。
「侯爵閣下、これは伯爵家内の問題です」
「なら、なぜ北方織房の賃金台帳にお前の名義の金が混ざっている」
クラウスが一枚の控えを机へ置いた。
ルシアンの瞳が揺れる。
「その書類はどこから」
「聞く前に、言うことがあるだろう」
空気が一気に張り詰めた。
私は綴りから偽物の青銀糸を一本取り出し、ルシアンの前で折った。ぱきりと嫌な音がする。
「本物ならこうは折れません」
続けて正規糸を折る。こちらは芯が残る。
「あなたは違いを知っていながら、私に偽署名をかぶせた」
「……君が黙れば済んだんだ」
その言葉に、工舎のあちこちで息を呑む音がした。
「黙ればよかった?」
私は自分でも驚くほど穏やかな声で聞いた。
「あなたは、本物を数えてきた私に向かって、それを言うのね」
ルシアンはもう取り繕わなかった。
「セレナは人前に立つのに向いている。君は違う。君には北で帳簿でも見ている方が似合う」
「ええ。帳簿は見るわ」
私は綴りを閉じた。
「あなたを落とす数字まで、きちんと」
ルシアンが手を伸ばしかけた瞬間、クラウスがその腕を払いのけた。
「帰れ」
「侯爵閣下」
「次に北方織房へ無断で入れば、商業監査と領内治安の両方で止める」
ルシアンは歯ぎしりし、私を睨んだ。
「王都へ戻っても、君の席はない」
言い捨てて去っていく背を見送りながら、私はもう不思議なくらい揺れなかった。
席がないなら、作ればいい。
北で、私の名前で。




