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理(ことわり)を焼く爆炎師~五元素の加護なき男、物理法則を武器にして魔導帝国へ復讐する~  作者: いわん


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第9話:空洞の瞳

 大聖堂への侵入は、前回の式典の調査で得た情報を使った。

 神官庁の警備は式典の日に集中する。式典のない日、大聖堂の北側通路は最低限の衛兵しかいない。それを三日間の観察で確認していた。

 カールは一人で動いた。

 ゲンツとスーケリーには伝えなかった。伝えれば止められる。止められる理由があると、カール自身も分かっていた。これは作戦ではなかった。計画の外にある行動だった。

 深夜、北側通路の壁を登った。石の継ぎ目に指をかけ、音を立てずに越えた。衛兵の交代タイミングを計算していた。交代の直後が最も隙が生まれる。引き継ぎの確認に意識が向く間、見ていない場所ができる。

 廊下を進んだ。

 松明の光が届かない影の中を選んで歩いた。神官庁の建物は豪奢だが、設計は古い。増築を繰り返した結果、本来の設計図には存在しない通路と空間が生まれていた。ゲンツが入手した古い建築図面にそれが示されていた。

 聖女の居室は大聖堂の最奥部にあった。

 扉の前に衛兵が二人いた。

 カールは懐から小瓶を取り出した。特定の化学物質を布に染み込ませ、密封してある。衛兵の背後に回り、布を顔に当てれば数秒で意識を失う。

 二人を処理した。

 扉を開けた。


 部屋は広かった。

 しかし調度品が少なかった。神官庁が聖女のために用意した部屋にしては、質素だった。必要なものだけが置いてある。生活するための最低限だけが。

 エレンは窓際に座っていた。

 椅子に座り、窓の外を見ていた。夜の帝都が見えるはずだった。魔術の灯りが街を照らしていた。しかしエレンはその灯りを見ているのか、ただ窓の方向を向いているだけなのか、判断できなかった。

 カールは部屋に入った。

 足音を立てた。気づかせるために、あえて立てた。

 エレンが振り向いた。

 カールを見た。

 反応がなかった。

 見知らぬ人間が部屋に入ってきた。その事実に対して、何の反応もなかった。驚きもなく、恐怖もなく、疑問もなかった。ただ視線が向いた。それだけだった。

 カールは一歩近づいた。

 灯りの中でエレンの顔を確認した。

 顔は変わっていなかった。四年前と同じ顔だった。しかしやはり瞳が違った。近くで見ると、より明確だった。光がない。焦点が合っているのかどうかも分からない。カールを見ているのか、カールの後ろを見ているのか、判断できなかった。

 カールは口を開こうとした。

 一瞬、止まった。

 名前を呼ぶかどうか、迷った。呼べば何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。変わらなかった時に、その事実を受け取れるかどうか。

 カールは呼んだ。

「エレン」

 反応がなかった。

 瞳が動かなかった。表情が変わらなかった。名前に対して、何も起きなかった。

「エレン」

 もう一度呼んだ。

 やはり何もなかった。

 カールは少しの間、エレンを見ていた。

「もう戻っていない」と呟いた。

 声に出したのは、確認するためだった。声に出すことで、事実として受け取るためだった。感情の処理ではなく、状況の確認だった。

 しかしそれが感情の処理でもあることを、カールは分かっていた。


 エレンの後頭部に、小さな金属の突起があった。

 髪の中に隠れていたが、近くで見れば分かった。皮膚から数ミリ突き出た金属片。複数ある。規則的な配置だった。

 カールはエレンの後頭部を確認した。

 エレンは抵抗しなかった。されるがままだった。それが、抵抗する意志がないのか、抵抗という概念がなくなっているのか、カールには判断できなかった。

 金属片の配置を確認した。指で触れて、形を確かめた。皮下に何かがある。金属の板のようなもの。複数の突起はそこから出ている。神経に接触させる形で埋め込まれた装置だと判断した。

 思考の管理に使っているとすれば、前頭葉に近い位置に埋め込まれているはずだ。後頭部の突起は接続点で、本体はもっと奥にある。

 カールは、自身の頭の中にある、帝都図書館で見た文献の記憶を探した。医学書に「意識を制御する装置」の概要が書かれていた記憶があった。それに酷似している。その構造を頭の中で組み立てた。

 外科的に外せるはず、であった。

 技術的には可能だった。装置の接続点が分かれば、切断する順番を設計できる。しかし誤れば神経を傷つける。神経を傷つければ、エレンに何が残るか分からない。今は情報が足りない。

「今じゃない」カールは言った。

 今は設備がない。道具がない。手術できる環境がない。それだけではなく、今やれば神官長に気づかれる前に離脱できない。

 今夜は確認だけだ。

 カールはメモ帳を取り出した。突起の配置を図に書き起こした。位置、間隔、皮膚との角度。分かる限りのことを書き留めた。

 エレンは動かなかった。

 カールが後頭部を調べている間、ただ座っていた。窓の外を向いていた。

 カールは書き終えた。

 メモ帳を閉じた。

 エレンの前に回った。正面から顔を見た。

 瞳が、カールの方を向いていた。しかし何も映していなかった。カールを見ているのではなかった。カールがいる方向を向いているだけだった。

 丘の上の夜明けを思い出した。

 エレンが水素の泡の話をしていた。目が輝いていた。「いつか証明したい」と言っていた。

 カールは首を振った。

 今は関係ない。

 帝国はエレンを象徴として使い、人格は必要としていない。人格がなくても象徴は機能する。顔と体があれば、奇跡の演出ができる。だから装置で思考を管理した。必要なのはエレンという人間ではなく、エレンという外見だけだった。

 この装置を設計し、埋め込む命令を出した者がいる。

 神官長ヴァルナだった。

 カールは奥歯を噛んだ。

「神官長」と声に出した。「お前の番は近い」

 エレンは反応しなかった。

 カールは立ち上がった。

 部屋を出る前に、もう一度だけエレンを見た。

 窓の外を向いていた。夜の帝都の灯りが、その瞳に映っていた。映っているが、見えていなかった。

 カールは扉を開けた。

 廊下に出た。

 処理した衛兵はまだ倒れていた。意識が戻るまで時間がある。来た道を戻った。北側通路の壁を越えた。夜の外気の中に出た。

 合流地点に向かいながら、カールは今夜確認したことを整理した。

 装置の構造は把握した。外科的に外せる見通しが立った。神官長を片付ければ、次にエレンのことを考えられる。順番がある。順番を守れば、できることが増える。

 それだけを考えた。

 丘の上のことは考えなかった。

 考えないようにしたのではなく、今は考える必要がないと判断した。判断と抑圧は違う。カールは自分にそう言い聞かせた。

 夜が続いていた。


 翌朝、神官長ヴァルナの執務室に報告が届いた。

「昨夜、聖女の居室に侵入者がありました。衛兵二名が薬物で昏睡させられ、聖女の部屋への侵入痕跡が確認されました。聖女に外傷はありませんが、後頭部の装置が触られた形跡があります」

 ヴァルナは報告書を置いた。

「侵入者の特定は」

「昏睡した衛兵は顔を見ていません。夜間のため映像もありません」

「爆炎師だ」ヴァルナは言った。迷いがなかった。「他に装置の存在を知っている可能性がある者はいない。聖女に接触を試みた者がいる。警備を倍にしろ」

「聖女を別の場所に移しますか」

「不要だ。移動すれば動揺が広まる。場所ではなく人員を増やせ」ヴァルナは立ち上がった。「それと、装置の設計者を呼べ。点検させろ。装置が無事かどうか確認しろ」

「すぐに」

 部下が退出した。

 ヴァルナは窓の外を見た。

 朝の帝都が動き始めていた。市場が開き、市民が行き交い、魔術の灯りが朝の光に溶けていった。

 爆炎師が聖女の装置を調べた。

 何を知ったのか。何を目的としていたのか。

 ヴァルナは考えた。

 答えは一つしかなかった。装置を外すつもりだ。しかし今夜は外さなかった。できなかったのか、しなかったのか。

 どちらにせよ、また来る。

「討伐班に連絡しろ」とヴァルナは廊下に向かって言った。「爆炎師の優先度を最上位に上げろ。聖女の警備と同時進行で進めろ」

 廊下で部下が走る音がした。

 ヴァルナは執務室に戻った。

 机の上に書類が積まれていた。帝国の日常業務が続いていた。

 しかしヴァルナの右手は、書類を手に取る前に一瞬だけ止まった。

 爆炎師が聖女の装置に触れた。

 その事実が、止めさせた。


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