第8話:偽りの奇跡
式典への潜入は、ゲンツが用意した偽の身分証で通った。
帝国神官庁が主催する「聖女の治癒式典」は、月に一度、帝都の大広場で行われた。聖女が民衆の前に現れ、病人や怪我人に触れると、傷が癒えるという触れ込みだった。加護の力による奇跡として、帝国全土に喧伝されていた。
入場には事前の登録が必要だった。しかし神官庁の書類管理は中央集権的で、地方からの申請者の確認が甘い。ゲンツがそこに目をつけ、三人分の偽の登録を三日前に済ませていた。
「地方の信者として入れ」とゲンツは言った。「式典の参加者は数百人いる。一人一人を確認する余裕は神官庁にない」
カールは信者の服装に着替えた。粗末な麻の上着と帽子。帝国の辺境から来た農民に見えるようにした。
服の内側には、ゲンツが作った小型の検知器具を縫い込んだ。特定の化学物質が空気中に存在する時に、内部の試薬が変色する仕組みだ。魔術的な装置ではない。化学反応を利用した、ただの検知紙だった。それと、式典の様子を書き留めるための小さなメモ帳と炭筆。
もう一つ、カールは懐に小型の試験管を入れた。式典中の空気を採取するためだった。試験管の口に栓をして持ち帰れば、後で成分を分析できる。
ゲンツとスーケリーは外で待機した。
「何かあれば煙を上げろ」とスーケリーは言った。「三百メートルは見える」
カールは頷いて、式典会場に向かった。
大広場は人で埋まっていた。
数百人の参加者が整然と並び、神官庁の儀仗兵が周囲を固めていた。中央に白い台座があり、そこに聖女が立つ構造になっていた。台座の周囲には神官が十数人、補助として配置されていた。
カールは参加者の中ほどに位置を取った。
台座から二十メートルの距離。近すぎず、遠すぎない。検知器具の性能から逆算した位置だった。
式典が始まった。
神官が詠唱し、神官庁の紋章を掲げた。荘厳な音楽が流れた。民衆が頭を垂れた。
それからエレンが現れた。
白いローブ。光のない瞳。水晶板で見た時と同じ顔だった。しかし今日は生身だった。距離が近かった。二十メートルの距離で、カールはエレンの顔を見た。
丘の上で笑っていた顔と、重ならなかった。
重ねようとして、できなかった。
カールは視線を外した。
式典の構造を観察した。病人が列をなして台座に近づく。エレンが手を伸ばし、触れる。神官が詠唱する。それで奇跡が起きるという流れだった。
最初の病人が台座に近づいた。
その瞬間だった。
臭いがした。
かすかな臭いだった。周囲の参加者には分からない程度のものだった。しかしカールには分かった。
服の内側の検知紙が熱を持っていた。手で触れると、布越しに変色しているのが分かった。
酸化剤の臭いだった。特定の化学触媒が空気中に散布された時に出る臭いだった。カールが実験室で何度も嗅いだことのある臭いだった。
台座の周囲の神官が、儀式用の香炉を振っていた。香の煙が広場に広がっていた。
カールは香炉を見た。
香の煙にしては、広がり方が不自然だった。特定の方向に向かって流れていた。台座の方向に向かって、集中していた。
エレンがいる場所に向かって。
カールは試験管の栓を抜いた。口を上に向け、周囲の空気を取り込んだ。数秒待ってから栓をした。これで成分が閉じ込められる。帰ってから分析すれば、何が散布されているか特定できる。
その間も、式典は続いていた。
病人がエレンに触れた。
神官の詠唱が頂点に達した。
光が走った。病人の傷が、目に見えて塞がった。民衆がどよめいた。「奇跡だ」という声が上がった。
カールはメモ帳を取り出した。
香炉の位置を図に描いた。神官の配置を書き込んだ。煙の流れる方向を矢印で示した。治癒が起きたタイミングと、香炉が振られたタイミングの時間差を書き込んだ。見たもの全てを、できる限り正確に紙に落とした。
「化学触媒だ」と、声に出さずに口だけ動かした。
酸化触媒を空気中に散布し、特定の波長の光と組み合わせることで、生体組織の再生を促進できる。カールが理論として考えたことがあった。実現するには精密な調合と散布が必要で、自分には当時その技術がなかった。
しかし帝国神官庁の技術官には、あったのだ。
民衆は奇跡だと思っている。エレンの加護による治癒だと思っている。しかし台座の下に仕掛けがある。香炉の煙が触媒だ。神官の詠唱は時間調整だ。エレン自身は何もしていない。
させていない。
カールはメモを書きながら台座を見た。エレンが次の病人に手を伸ばしていた。
その動作は、人形のようだった。
命じられた通りに手を伸ばす。命じられた通りに触れる。命じられた通りに光の中に立つ。その光は自分の力ではない。しかしエレンにはそれが分からない。あるいは分かっていても、どうすることもできない。
カールは奥歯を噛んだ。
あいつを道具にしたのか。
村を燃やして、家族を殺して、エレンだけを引き抜いて、頭に装置を埋め込んで、奇跡の象徴として使う。エレン個人がどうこうではない。この仕組み全体が、カールの中で何かに火をつけた。
怒りが来た。
これまでの怒りとは種類が違った。ドレスへの怒りは追放への怒りだった。判事への怒りはグレッグの死への怒りだった。それらは個人への怒りだった。
しかし今感じているのは、帝国という構造への怒りだった。
人を材料として使う。力のある者が、力のない者を道具として組み込む。個人の意志は関係ない。使えるかどうかだけが判断基準だ。エレンを殺さずに使ったのは、エレンが生きている方が価値があったからだ。それだけだ。
カールはメモを書き続けた。
式典の全体を書き留めた。香炉の動き、触媒の散布タイミング、神官の位置関係。証拠として機能する形で書き留めた。感情は後でいい。今は手を動かす。
式典が終わった後、カールは参加者の流れに紛れて広場を出た。
合流地点でゲンツとスーケリーが待っていた。
メモ帳と試験管を渡した。ゲンツがメモを確認した。
「香炉が触媒の散布装置か」
「そうだ。試験管の中に式典中の空気を閉じ込めた。成分を分析すれば触媒の種類が特定できる。種類が分かれば、製造できる設備と技術の規模が分かる。神官庁の技術部門が関与していることを証明できる」
ゲンツはメモの図を見た。「香炉の位置と煙の向きが全部書いてある。これだけ揃えば状況の再現ができる」
「これがあれば判事も神官長も終わりだ」とゲンツが言った。「帝国が裏で科学を使っている証拠だ。奇跡が偽物だったと証明できる」
カールは頷いた。「終わらせる」
「いつ公開する」
「ただし俺のやり方で」
ゲンツが少し間を置いた。「どういう意味だ」
「公開するタイミングと方法を選ぶ。今すぐ出せば帝国が隠蔽する。判事が機能するタイミングで、神官長が逃げられないタイミングで出す。証拠は武器だ。使い時を間違えれば無駄になる」
スーケリーが言った。「エレンは」
「今は手が出せない。制御装置がある。外科的に外す必要がある。それは神官長を片付けてからだ」カールは歩き始めた。「今夜、試験管の中身を分析する。触媒の種類が特定できれば、神官庁の技術官の関与を証明できる。末端ではなく上まで繋げられる」
三人は路地に入った。
カールは歩きながら、広場でエレンが手を伸ばしていた動作を思い出した。
人形のようだった。
丘の上で笑っていたエレンとは、別の人間のようだった。
カールは考えるのをやめた。
今夜やることがある。試験管の分析だ。触媒の特定だ。次の手順だ。感情は燃料にはなる。しかし今夜の燃料は十分にある。これ以上は要らない。
歩き続けた。
帝都の大神殿では、式典の終了後、神官長ヴァルナに報告が上がっていた。
「式典の参加者の中に、不審な動きをした者がいました。登録者の一人ですが、地方からの農民にしては動きが洗練されていました。式典中に何かを書き留めていたという報告が衛兵から上がっています。また、何かを空中に向けて開いた後、栓をして懐に入れる動作をしていたとのことです」
ヴァルナは眉をひそめた。「特定できるか」
「登録情報は偽造の可能性があります。現在追跡中です」
「始末しろ」ヴァルナは言った。「式典への潜入を許したことは外部に漏らすな。聖女の権威に関わる」
「式典の様子を書き留められた可能性は」
ヴァルナは少し考えた。
「書き留めただけでは証拠にならない。しかし空気を採取したとすれば話が違う」ヴァルナの声が低くなった。「追跡を急げ。取り戻せるなら取り戻せ。無理なら始末するだけでいい」
「神官庁の技術部門との連絡は」
「外部との接触を制限しろ。今すぐ」
部下が退出した。
ヴァルナは窓の外を見た。
大神殿の中庭に夜の影が落ちていた。
触媒の使用は神官庁の最高機密だった。帝国が化学を否定しながら、裏で化学を使っている。その矛盾は、表に出てはならない。
試験管一本で、その矛盾が証明される。
ヴァルナは立ち上がった。
「追跡班を増やせ」と廊下に向かって言った。「今夜中に見つけろ」




