第10話:救わない
ドレス大佐が来ることは、前日に分かっていた。
ゲンツの情報網が掴んだ。帝国軍の精鋭部隊が帝都の外縁部に集結している。指揮官はドレス大佐。目標は爆炎師グループの捕縛または抹殺。皇帝直轄命令による討伐だった。
「逃げるか」とゲンツが言った。
「待つ」とカールは言った。
「迎え撃つのか」
「ドレスが来るなら、ここで終わらせる。逃げれば次の機会を作らなければならない。作れる保証はない」
スーケリーが地図を広げた。「場所を選べ」
三人で地形を確認した。帝都外縁部の廃工場地帯。建物が密集していて、騎馬での展開がしにくい。魔術師が詠唱するための広い場所も限られる。カールが最も動きやすく、相手が最も動きにくい場所を選んだ。
準備に一日かかった。
廃工場の主要な通路に油を染み込ませた布を仕掛けた。発煙剤を複数箇所に配置した。ゲンツの電気装置を入り口に設置した。スーケリーが射線を確保できる高所を三箇所確認した。
夜明け前に全ての準備が終わった。
「来る」とスーケリーが高所から言った。
ドレス大佐は五十人を連れていた。
魔術師が十二人。残りは帝国軍の精鋭兵士だった。整然とした行進だった。軍靴の音が廃工場地帯に響いた。
カールは廃工場の入り口に立った。
一人だった。
ゲンツとスーケリーはそれぞれの位置についていた。カールが正面に立つことで、ドレス大佐の注意を引きつける。その間に二人が動く。それが計画だった。
ドレス大佐が行進を止めた。
三十メートルの距離だった。
カールを見た。四年ぶりだった。ドレス大佐の顔は変わっていなかった。恰幅のいい体格、鋭い目、軍人の威圧感。大佐の階級章が肩に光っていた。
ドレスがカールを認識した瞬間、その目に何かが動いた。驚きではなかった。軽蔑だった。
「加護なき者に何ができる」
ドレス大佐は言った。五十人の部下の前で、声を張った。聞かせるための言葉だった。
カールは答えた。
「見せてやる」
右手を上げた。
それが合図だった。
廃工場の複数箇所から煙が上がった。発煙剤が起動した。灰色の煙が廃工場地帯を満たし始めた。視界が急激に狭まった。
魔術師たちが詠唱を始めた。
しかし煙の中では詠唱者の位置が分からない。ゲンツの電気装置が入り口付近で作動し、入り口に集中していた兵士三人が倒れた。スーケリーの装置が発射音を上げた。煙の中でも射線を確保していた高所から、魔術師の一人が倒れた。
詠唱が乱れた。
完成する前に中断させる。それがカールの基本方針だった。詠唱には集中が必要だ。周囲の状況が変化し続ければ、集中は保てない。
カールは煙の中を動いた。
事前に仕掛けていた布に点火した。廃工場の通路が燃えた。炎が壁を伝い、煙に混じった。魔術師たちが炎を避けようとした。避ける方向を変えれば、詠唱はまた乱れる。
五分で魔術師の半数が動けなくなっていた。
兵士たちが剣を抜いて突撃しようとした。しかし煙の中では敵の位置が分からない。スーケリーが高所から狙い撃ちにする。ゲンツが電気装置を持ち替えて接近戦に対応した。
カールは煙の中でドレス大佐を探した。
指揮官は後方にいる。前線には出ない。それが軍の常識だった。
煙の外縁部に向かった。
ドレス大佐がいた。
副官と二人の護衛を連れていた。煙の外から状況を確認しようとしていた。カールが煙の中から現れた時、ドレス大佐は一瞬固まった。
護衛が剣を抜いた。
カールは小型の発煙筒を投げた。護衛の足元で炸裂し、濃い煙が広がった。護衛が視界を失った間に、カールは懐から取り出した薬品瓶を護衛に浴びせた。強い刺激臭が広がり、護衛が目を押さえて蹲った。副官が逃げた。
ドレス大佐だけが残った。
煙に包まれた廃工場を背景に、二人が向き合った。
ドレス大佐の顔が変わっていた。
軽蔑が消えていた。代わりにあったのは、カールが初めてドレス大佐に見る表情だった。理解できないものを前にした時の顔だった。
「なぜだ」とドレス大佐は言った。声が低かった。「お前に加護はないはずだ。加護なき者が、なぜ」
カールは答えた。
「加護がなければ考えるしかない」
ドレス大佐が何か言おうとした。
「お前には最初からそれができなかった」とカールは続けた。「加護があったから考えなかった。加護が全てをやってくれると思っていた。だから俺が何をしているのか、四年間理解できなかった」
ドレス大佐は黙った。
反論が出てこなかった。
カールは手を動かした。煙が、ドレス大佐の口と鼻を覆う。
カールの放った煙は、ドレス大佐から呼吸を奪った。もがき苦しむ姿を、カールは静かに見つめていた。
煙の中でドレス大佐が膝をついた。
しばらくして、動かなくなった。
カールは、ドレス大佐の呼吸と品温が止まっていることを、確認した。
それから立ち上がり、廃工場の方を向いた。戦闘音が続いていた。しかし弱まっていた。終わりに近かった。
合流した時、ゲンツの腕に浅い切り傷があった。スーケリーは無傷だった。帝国軍の生き残りは数人が逃げた。追わなかった。追う必要がなかった。
「ドレスは」とゲンツが聞いた。
「終わった」
ゲンツが頷いた。スーケリーが何も言わずに装置の点検を始めた。
撤収の準備をしていた時、ゲンツが口を開いた。
「エレンを今夜救出できるかもしれない。警備の意識がドレスの討伐に向いている。今が一番手薄だ」
カールは手を止めた。
一瞬だけ、止まった。
大聖堂の奥でエレンが窓の外を見ていた。光のない瞳で。名前を呼んでも反応しなかった。後頭部の装置。外科的に外せる。しかし今は設備がない。
今助けると全部が崩れる。
装置を外す設備も技術者もいない。無理に外せばエレンが死ぬかもしれない。救出だけして装置が残れば、神官長が別の方法で制御するだけだ。根を断たなければ意味がない。根は神官長だ。神官長の先に皇帝がいる。
順番がある。
「今の俺に必要なのは救済じゃない」とカールは言った。「皇帝を倒すことだ」
ゲンツが少し間を置いた。「エレンのことは」
「神官長を片付ければ、装置を作った技術者が残る。技術者を使えば安全に外せる。今動けば技術者ごと失う」
「それは本当の理由か」とゲンツが言った。静かな声だった。責めていなかった。確認していた。
カールはゲンツを見た。
「本当の理由だ」と言った。
そうでなければならなかった。感情で動いて全部を崩すわけにはいかなかった。エレンを助けたいという気持ちが今夜あることは、カール自身が分かっていた。だからこそ、理由を言葉にして確認した。感情と判断を分けるために。
スーケリーが装置を背負いながら言った。「行こう。夜明けまでに移動しなければならない」
三人は廃工場地帯を離れた。
カールは歩きながら、ドレス大佐のことを考えた。
四年間、復讐の対象として頭の中にあった男だった。終わった。終わったという実感は、思っていたより静かだった。怒りが消えたわけではない。しかし怒りの向き先が変わった。
ドレス大佐は個人だった。
しかし問題は個人ではない。帝国という構造だ。その頂点に皇帝がいる。
次は神官長だ。
夜明けの光が空の端に見え始めていた。




