第6話:王水の雨
輸送隊は夜明け前に動く、という情報をゲンツが掴んだ。
帝都から北方の魔術研究所へ向かう定期輸送だった。魔石を積んだ荷車が三台、護衛の兵士が十二人、魔術師が二人。隔週で同じ経路を通る。警備の配置も毎回ほぼ同じだった。
「なぜ経路を変えない」とスーケリーが言った。
「魔石の輸送は神官庁が管理している。手続きが複雑で経路変更には上位の承認がいる」とゲンツが答えた。「官僚制の問題だ。柔軟に動けない」
「好都合だ」とカールは言った。
三人は前日の夜に現地入りした。輸送経路の途中にある峡谷地形を選んだ。両側が岩壁になっていて、逃げ道が限られる。スーケリーが高所に陣取り、ゲンツが電気装置を谷の入り口に設置した。
カールは荷車が通る道の中央に立った。
夜明けの薄明かりの中、輸送隊が峡谷に入ってきた。
魔石は帝国の根幹だった。
五元素の力を蓄えた鉱石で、魔術師の力を増幅させ、帝国の魔術インフラを支えていた。都市の灯り、農地の灌漑、軍の装備。魔石なしには帝国の日常が成立しない。産出地は限られていて、採掘から流通まで全て神官庁が管理していた。
魔石は神聖なものとされていた。
加護ある者たちの力の源であり、五元素の祝福の物質的な証明だった。民衆は魔石を神殿で拝んだ。触れることは許されなかった。加護なき者が魔石に近づくことは、秩序への冒涜とされていた。
カールは魔石の実物を初めて手に入れたのは一年前だった。
闇市で小さな欠片を買った。法外な値段だった。しかし必要だった。
実験室に持ち帰り、様々な薬品に浸した。ほとんどは反応しなかった。魔石は化学的に安定した鉱石だった。しかし一つだけ、劇的な反応を示すものがあった。
王水だった。
塩酸と硝酸を三対一で混合した液体。通常の酸では溶けない金をも溶かす、最も腐食性の高い混合酸だ。魔石を王水に浸すと、神聖な輝きを放っていた鉱石が、茶色い液体の中でじわじわと溶け始めた。
一時間後、魔石は跡形もなくなっていた。
カールはそれを見て、何も感じなかった。感動もしなかった。予測通りだったからだ。神聖でも何でもない。ただの鉱石だ。化学的に安定しているだけで、適切な酸には勝てない。
それだけのことだった。
「止まれ」
カールが峡谷の中央で言った。
輸送隊が止まった。先頭の兵士が剣を抜いた。「何者だ」
「道を塞いでいる人間だ」
魔術師二人が前に出た。詠唱の準備をしている。カールはそれを確認した。十秒の余裕がある。十秒あれば十分だった。
背負っていた革袋から大型の容器を取り出した。中には王水が入っていた。輸送しやすいよう、耐酸性の陶器で作った容器だった。
「魔石を一つ出せ」とカールは言った。
兵士たちが笑った。「正気か。加護なき者が魔石に触れることは」
「そうだな。だからこちらから行く」
容器の蓋を開けた。
荷車に向かって走った。兵士が追いかけてくる。魔術師の詠唱が続いている。しかし峡谷の入り口でゲンツの電気装置が作動し、入り口付近の兵士三人が同時に倒れた。スーケリーの装置が発射音を上げ、魔術師の一人が結界ごと吹き飛ばされた。
カールは荷車に飛び乗った。
積み荷の布を剥いだ。魔石が現れた。拳大から頭大まで、様々な大きさの鉱石が詰め込まれていた。青白く輝いていた。確かに美しかった。
容器を傾けた。
王水が魔石に降り注いだ。
反応は即座だった。魔石の表面が泡立ち、輝きが揺らぎ始めた。茶色い蒸気が立ち上がった。刺激臭が広がった。
兵士の一人が見ていた。目を見開いていた。
「なんだ、何をした」
魔石の輝きが急速に失われていった。鉱石の形が崩れ始めた。液体に溶けていく。神聖な力の源とされていた鉱石が、酸の中で静かに消えていった。
「神聖な魔石が……溶けるはずが」と兵士が呻いた。声が震えていた。信じられないものを見ている顔だった。
カールは答えなかった。
次の容器を取り出した。二台目の荷車に向かった。
残りの兵士が動こうとした。スーケリーの発射音が響き、先頭の兵士が倒れた。残りが足を止めた。三百メートルの距離から正確に止める。それだけで、人間は動けなくなる。
二台目の荷車の魔石にも王水を浴びせた。同じ反応が起きた。
三台目に移ろうとした時、魔術師の一人が詠唱を完成させた。火球が飛んできた。カールは荷車から飛び降り、岩壁に身を隠した。火球が荷車を直撃し、残りの魔石が吹き飛んだ。
魔術師が自分の魔石を爆発で吹き飛ばした。
カールはそれを岩壁の影から見ながら、王水の残りを地面に捨てた。もう必要ない。
「撤収」とカールは言った。
三人は峡谷を抜け、準備しておいた経路で離脱した。
その夜、帝国の報告書には次のように記された。
「北方輸送路において、爆炎師と称する者を含む反乱グループによる魔石輸送隊への襲撃が発生。魔石の大部分が未知の液体により溶解。一部は混乱の中で損壊。護衛兵士六名が負傷。魔術師一名が戦闘不能。当該グループは離脱し、追跡に失敗」
皇帝は報告書を読んだ。
側近が控えていた。「ご指示は」
「爆炎師に討伐命令を出す」皇帝は静かに言った。「皇帝直轄の命令として。一般の軍事命令ではなく、私の名前で出せ」
「格上げする理由は」
「魔石が溶けた。それだけで十分な理由だ」
皇帝直轄の討伐命令が出た。それは帝国において、最も重い命令の分類だった。通常の反乱鎮圧とは扱いが異なる。全ての軍事部門と情報部門が連動して動く。
命令書が各部署に届いた。
バルト判事の執務室に、報告書が届いたのは昼過ぎだった。
魔石輸送隊への襲撃の詳細報告だった。その中に一行あった。「魔石が未知の液体により溶解。神聖な鉱石が化学的に分解される様子を目撃した兵士複数が動揺し、一時的に戦闘能力を喪失した」。
バルト判事は報告書を読んだ。一度読んだ。もう一度読んだ。
机の上に報告書を置いた。
化学魔術師のグレッグを処刑したのは六週間前だった。あの日、バルト判事はいつも通りに処刑を執行し、いつも通りに夕食を食べ、いつも通りに眠った。名前も翌日には忘れた。日常業務だった。
しかし今、報告書が机に積み上がっていた。
最初の報告は城の西棟での爆発だった。次に魔術師団が廃倉庫で全滅した報告が来た。火属性の精鋭が何者かに制圧された報告も来た。そして今日、魔石が溶けたという報告が来た。
バルト判事は報告書の束を手に取った。
重かった。
右手が、微かに震えていた。
バルト判事はそれに気づき、机の上に手を置いた。震えを止めようとした。止まらなかった。
加護なき者を処刑したのは日常業務だった。記録にも残さなかった。しかし加護なき者たちが、今、帝都の外で動いている。魔石を溶かしている。皇帝直轄の討伐命令が出た。
バルト判事は窓の外を見た。
帝都の昼の光景だった。市場が賑わい、市民が行き交い、魔術の灯りが輝いていた。いつもの光景だった。
しかしバルト判事には、その光景が少しだけ違って見えた。
何が違うのかを言葉にすることは、できなかった。




