第5話:針は音より速い
音が聞こえた。
カールは反射的に壁に張り付いた。ゲンツも同じ動きをした。二人の間を、何かが通過した。速すぎて見えなかった。
一拍遅れて、前方の魔術師が膝をついた。
結界が張られていた。青白い光の膜が魔術師を包んでいたはずだった。物理的な攻撃を弾く防御魔術だ。帝国軍の精鋭が使う上位の結界だった。
その結界に、穴が開いていた。
小さな穴だった。しかし確実に開いていた。何かが貫通した跡だった。矢ではない。弓の射程でも角度でもない。それにあの速度は弓で出せるものではなかった。
「何だ、今の」とゲンツが言った。
カールは音が来た方向を見た。三百メートル先の廃屋の屋根だった。人影があった。細長い筒のようなものを構えた人物が、ゆっくりと立ち上がった。
女だった。
スーケリーと名乗った。
年齢はカールと同じくらいだった。背が高く、日に焼けた肌をしていた。細長い金属の筒を肩にかけたまま、廃屋の屋根から降りてきた。動きに無駄がなかった。長年、高所での作業に慣れた人間の動き方だった。
「三日間、お前たちを見ていた」と彼女は言った。
「見ていた理由は」とカールは聞いた。
「一緒に動けるか確認するためだ」
「結論は」
「悪くない」スーケリーは金属の筒を地面に置き、機構を確認しながら言った。「ただし遠距離支援がいれば、もっと動きやすくなる。私がいれば、魔術師の結界は問題にならない」
ゲンツがその筒を見た。長さは一メートル半ほど。内側が複雑な構造になっている。「これは何だ。見たことがない」
「私が作った。名前はない」スーケリーは答えた。「金属の筒の中で火薬を爆発させ、鉛の塊を高速で飛ばす装置だ」
カールは身を乗り出した。「火薬の爆発を推進力に変換しているのか」
「そうだ。密閉した筒の中で爆発を起こせば、圧力は一方向にしか逃げない。その方向に鉛を置いておけば、鉛だけが飛ぶ」
「そいつの速度はどのくらい出る」
「計測する方法がないから正確には分からない。しかし音より速い。自分で打って確かめた」
ゲンツが口を開いた。「それで結界を抜けたのか」
「結界は魔力への干渉を前提に設計されている。魔術的な攻撃を想定している。だから純粋な物理的速度には対応が遅れる。十分に速い鉛塊は、結界が反応する前に抜けられる」
カールは装置の構造を見た。火薬の燃焼を密閉空間で起こし、膨張する気体の圧力を推進力に変える。燃焼理論の応用だった。自分が追求してきたものと根が同じだった。
「これを一人で作ったのか」
「三年かかった」スーケリーは言った。「追放されてから、ずっとこれだけを考えていた」
スーケリーが帝国軍に入ったのは十九の時だった。
北部の地方都市の出身で、父親が猟師だった。幼い頃から弓を扱い、十五で父親の腕前を超えた。帝国軍の徴兵があった時、迷わず志願した。女性兵士は珍しかったが、弓の実力が認められて採用された。
第七遠征部隊での三年間は、実戦の連続だった。
北部の反乱軍は魔術師を多く抱えていた。しかし結界を張った魔術師を正面から崩すのは消耗が大きい。スーケリーは側面から弓で結界の継ぎ目を狙う戦術を試みた。しかし弓の弾速では結界の反応に間に合わなかった。もっと速いものが必要だと、そこで確信した。
部隊長からの評価は高かった。弓の命中率は部隊で一位だった。
問題が起きたのは、神官長が視察に来た時だった。
帝国神官庁の長が地方視察に来ることは珍しい。しかし北部の反乱が長引いていたため、中央からの介入があった。神官長ヴァルナは第七遠征部隊の陣地を訪れ、兵士たちを見て回った。
スーケリーを見た時、神官長は眉をひそめた。
「女か」
部隊長が説明した。弓の実力、戦果、部隊への貢献。数字を並べた。
神官長は聞いていなかった。
「女に加護があっても、軍には不要だ。帝国軍は秩序の象徴だ。秩序とは適切な者が適切な場所にいることだ。女が戦場にいることは、その秩序を乱す」
翌日、スーケリーに追放の書類が届いた。
部隊長は何も言えなかった。神官長の言葉は皇帝の意志に等しい。覆せない。
スーケリーは書類を受け取った。弓の命中記録の台帳を見た。三年分の数字が並んでいた。それを閉じて、弓と矢筒を持って陣地を出た。
しかし門を出る直前に、立ち止まった。
弓では足りない、という確信があった。弦の張力で弾速の限界が決まる。その限界を超えるには、別の力が必要だった。火薬の爆発なら、弓より遥かに大きな圧力が出せる。閉じた筒の中で爆発を起こせば、その圧力を一方向に集中できる。
陣地を出てから三年。廃材を集め、金属を加工し、火薬の調合を繰り返した。失敗するたびに改良した。装置が爆発して怪我をした。それでも続けた。
音より速い鉛塊が、初めて的に当たった日のことを、スーケリーは今でも覚えていた。
「神官長の名前はヴァルナだ」とスーケリーは言った。「今は帝都の大神殿にいる」
カールは頷いた。「知っている。順番の中に入っている」
「私の番を作れ」
「ある」カールは言った。「神官長はドレスの後だ」
「ドレスが先か」
「俺とゲンツの話がある」
スーケリーは少し考えた。「分かった。その順番で構わない」
三人は廃屋の中に入った。ゲンツが荷物を広げ、カールが地図を取り出した。現在の帝都における帝国軍と情報部の配置を記した地図だった。
ゲンツはスーケリーの装置を見ながら言った。「火薬を使う発射装置か。私の電気装置と組み合わせれば、点火機構を改良できるかもしれない。電気点火にすれば、発射のタイミングが安定する」
スーケリーがゲンツを見た。「電気で点火できるのか」
「できる。やってみるか」
「やってみろ」
カールは二人を見た。それから地図に視線を戻した。
「三人になった」とゲンツが言った。「燃焼、電気、そして」
「音より速い針だ」とスーケリーが言った。
「共通点は一つだ」とカールは言った。
「帝国に不要と言われた人間か」スーケリーが言った。
「そうだ」
スーケリーは装置の照準部分を確認しながら言った。「祝福を持つ者だけが戦えるという話は、どこへ行ったんだろうな」
誰も答えなかった。答える必要がなかった。
今日、帝国軍の精鋭が張った結界が、鉛塊一発で穴を開けられた。その事実が全ての答えだった。
帝都の大神殿では、神官長ヴァルナが報告を受けていた。
「爆炎師グループに、女が加わったとの情報です。元第七遠征部隊の追放兵で、何らかの遠距離攻撃装置を持っているようです。魔術師の結界を三百メートルの距離から貫通しました」
ヴァルナは祈祷書から目を上げた。
「スーケリーか」
「ご存知で」
「視察の時に追放した女だ。加護があっても軍には不要と判断した」ヴァルナは祈祷書を閉じた。「結界を貫通する装置を作ったとは。始末しておくべきだったか」
「今からでも」
「情報部に伝えろ。爆炎師と合流した時点で危険度が上がった。その装置の詳細を把握しろ。見たことのない仕組みだとすれば、神官庁の技術部門が分析する必要がある」
部下が退出した。
ヴァルナは窓の外を見た。
大神殿の広場では、今日も信者が祈りを捧げていた。加護ある者たちが五元素の祝福に感謝する儀式だった。整然とした光景だった。秩序の体現だった。
追放した女が、帝都で正体不明の装置を構えている。
ヴァルナはその事実を頭の隅に押し込んだ。今は祈祷の時間だった。秩序を守る神官長が、乱れた顔を見せるわけにはいかない。
祈祷書を開いた。
文字を目で追いながら、ヴァルナの指が祈祷書の角を無意識に折り曲げていた。




