第3話:俺は魔術師じゃない
噂は三日で広がった。
帝国城の西棟で爆発があった。魔術師が一人、加護なき侵入者にやられた。それだけの話が、帝都の路地を伝わる間に形を変えた。
「新しい魔術師が現れた」
「加護なき者を名乗っているが、あれは魔術だ」
「火属性の精鋭を一瞬で倒したらしい」
「神に見捨てられた者が、神の力を手にした。奇跡だ」
カールが宿の近くの井戸で水を汲んでいると、見知らぬ男が近づいてきた。四十代、農夫の手をしている。帝都に出稼ぎに来ている種類の人間だった。
「あんたが爆炎師か」と男は言った。
「違う」
「でも加護なき者が帝国の魔術師を倒したという話は」
「俺の話かどうか知らない」
男は引き下がらなかった。「加護なき者が魔術を使えるなら、俺たちにも希望がある。あんたは新しい時代の魔術師だ」
カールは水桶を持ち上げた。
「俺は魔術師じゃない」
「しかし」
「仕組みを知っているだけだ」
それだけ言って、カールは宿へ戻った。背後で男が何か言っていたが、聞かなかった。
村が燃やされてから半年間、カールは街へと移り、そこの図書館に通い続けた。
帝都の外れにある公開図書館。魔術の文献は鍵のかかった書庫に収められていて、加護なき者は閲覧できない。しかし自然哲学の棚は誰でも使えた。古い時代に書かれた書物が埃をかぶって並んでいた。魔術が発展する以前、人間が現象の仕組みを言葉で説明しようとしていた時代の記録だった。
燃焼について書かれた文献を最初に見つけたのは、通い始めてからから二ヶ月後だった。
薄い冊子だった。著者は三百年前の人物で、名前は記録に残っていない。内容は素朴だった。「物が燃えるためには三つのものが必要である。燃えるもの、空気、そして熱。どれか一つが欠ければ、火は消える」。
カールはその一文を読んで、しばらく動けなかった。
燃料。酸素。熱。
それだけだった。魔術師が炎の詠唱をする時、彼らは無意識にその三つを揃えている。加護が自動的に揃えている。しかし仕組みを知れば、加護なしでも同じことができる。
魔術は現象だ。神秘ではない。
そこから先は早かった。爆発の条件を調べた。気体と液体と固体、それぞれの燃焼特性を整理した。点火のタイミングと散布の方法を実験した。山の中に小屋を借り、人目を避けながら試行錯誤を繰り返した。失敗した。また試みた。また失敗した。
半年で基礎が固まった。一年で実用になった。
燃料・酸素・熱。それだけの話だった。
加護がなければ考えるしかない。考えれば分かる。分かれば使える。
魔術師が三秒かけて詠唱する間に、カールは火花石を一回打つだけでいい。
帝都の軍本部。
ドレス大佐は報告書を机に叩きつけた。
「馬鹿馬鹿しい」
部下が直立したまま動かない。
「加護なき者が魔術師を倒しただと。笑わせるな。何かの間違いだ。グレンが油断したんだろう。それだけの話だ」
「しかし閣下、西棟の損傷は」
「爆発なら魔術で説明がつく。加護なき者が起こせるものではない」
「は」
「調査を続けろ。加護ある協力者がいるはずだ。そいつを探せ。加護なき者が単独でやったなどという馬鹿げた報告書を上に出すな。笑い者になる」
部下が敬礼して退出した。
ドレス大佐は窓の外を見た。
帝都の夜景だった。魔術の灯りが街を照らしていた。整然とした光の列。加護ある者たちが支える秩序の象徴だった。
加護なき者が魔術師を倒した。
あり得ない。
ドレス大佐はもう一度そう思おうとした。しかし今度は、言葉が少し遅かった。
魔術師グレンは火属性の精鋭だった。帝国軍でも上位の実力者だった。そのグレンが、加護なき侵入者に詠唱を完成させる前に制圧された。報告書にはそう書いてある。
詠唱を完成させる前に。
ドレス大佐の脳裏に、三年前の顔が浮かんだ。
書類を折り畳んで返した男の顔。「内容は覚えました」と言った時の、感情のない声。怒りも悲しみも見せなかった顔。
まさか。
ドレス大佐は首を振った。あり得ない。あの男は加護がない。化学の知識があるだけの、ただの追放兵だ。魔術師に勝てるはずがない。そもそも、やつの研究は、村ごと消滅させたはずだった。
しかし窓の外を見ながら、ドレス大佐の右手が書類の端を無意識に折り曲げていた。
皇帝の執務室には、別の報告書が届いていた。
軍の報告書ではなく、情報部からの文書だった。帝国情報部は軍とは独立して動く。ドレス大佐が「馬鹿げた報告書を出すな」と言っている間に、情報部は別の経路で事実を確認していた。
皇帝は文書を読んだ。
「加護なき者が魔術師を制圧。使用したのは魔術ではなく、燃焼を利用した物理的手段と判断される」
皇帝は文書を閉じた。
側近が控えていた。「ご指示は」
「しばらく様子を見る」
「討伐は」
「急がなくていい」皇帝は窓の外を見た。「加護なき一人の男が、魔術師を一人倒した。それだけのことだ。しかし」
側近が待った。
「注視しておけ。放置できない存在になる前に、適切に対処する」
それだけ言って、皇帝は次の書類に目を移した。
執務が続いた。帝国の日常が続いた。
カールは宿の机で文献を広げていた。
次の段階に進む必要があった。霧状の油による引火は有効だが、範囲と速度に限界がある。より広い範囲に、より確実に展開できる方法を考えなければならない。
紙に数字を書いた。燃焼速度の計算だった。
宿の外から声が聞こえた。
「爆炎師はここにいるか」
別の声が続いた。「新しい魔術師を連れてきたぞ」
また別の声。「俺たちにも教えてくれ。加護がなくても戦う方法を」
カールは顔を上げた。
窓から外を見た。三人いた。いずれも若い。加護なき者の証である灰色の腕章をつけている。帝国では加護なき者は公共の場でそれを示す義務がある。三人とも、その腕章をつけたまま堂々と立っていた。
カールは窓を開けた。
「俺は魔術師じゃない」と言った。
三人が見上げた。
「仕組みを知っているだけだ。教えられることは何もない」
「でも」と一人が言った。「あんたは加護なしで魔術師に勝った」
「魔術を使ったわけじゃない」
「じゃあ何を使ったんですか」
カールは少し考えた。
「燃料と酸素と熱だ」
三人が顔を見合わせた。意味が分からない顔をしていた。
カールは窓を閉めた。机に戻り、計算の続きをした。
崇められることに興味はなかった。希望の象徴になることにも興味がなかった。
やることは決まっている。順番がある。次はドレスだ。
計算を続けた。数字が紙を埋めていった。




