第27話:聖女の崩壊
カールは、玉座の間で、皇帝と向き合っていた。
二十歩の距離だった。
皇帝は立っていた。玉座から離れていた。手に何も持っていなかった。護衛は煙の中で倒れていた。
「話があると言っていたな」皇帝は言った。
「廃神殿での続き、だ」カールは答えた。
「そうか」
外から音が聞こえた。城の外の音だった。空の光がまだ揺れていた。エレンの魔術が不安定なままだった。
皇帝は動かなかった。カールも動かなかった。
二人の間の距離が、そのまま保たれていた。
その時、音が止まった。
空の光が消えた。
一瞬だった。白く光っていた空が、元の青さに戻った。均一に、完全に。
詠唱が止まった。
皇帝の目が変わった。
「聖女の制御が切れた、か」皇帝は言った。自分に確認するような声だった。
広場。
エレンが崩れ落ちた。
両手を広げていた姿勢のまま、膝をついた。次に手が地面についた。体が支えを失ったように、ゆっくりと折れた。
制御装置が故障していた。
酸素制御装置の干渉が続いていた。酸素濃度の変化が、装置の電気的な安定性に影響を与えていた。長時間の干渉が蓄積し、装置の内部回路が耐えられなくなった。
接続が切れた。
エレンの瞳が変わった。
焦点が合った。光が戻った。ゆっくりと、しかし確実に。夢から覚める時のように、意識が戻ってきた。
最初に見えたのは地面だった。石畳だった。自分の手が地面についていた。
次に周囲が見えた。
広場だった。しかし記憶の中の広場と違った。煙があった。炎があった。人が倒れていた。兵士が倒れていた。魔術師が倒れていた。空には白い光の残滓があった。
エレンは見た。
何が起きていたか、分からなかった。しかし自分が何かをしていた。体が動いていた。自分の意識とは関係なく動いていた。それが今、止まった。
体が震えた。
崩れ落ちそうだった。崩れ落ちた。
玉座の間を離れたスーケリーが、広場にいた。
玉座の間への侵入をカール一人に任せた後、スーケリーは外で待機していた。エレンが広場にいることを確認していた。
エレンが崩れ落ちた瞬間を見た。
走った。
エレンの傍らに膝をついた。
エレンは地面に手をついたまま、顔を上げていた。目が合った。
スーケリーは何も言わなかった。エレンの様子を確認していた。
それから、一言だけ、言った。
「立てる?」
エレンは頷いた。
スーケリーが手を差し伸べた。エレンがその手を取った。立ち上がろうとした。足が震えていた。それでも立った。
「カールは?」エレンが言った。
「城。玉座の間にいる」スーケリーが答えた。
エレンは城の方向を見た。
玉座の間で、カールはエレンの声を聞いた。
城の壁を通して聞こえるはずはなかった。しかし聞こえた気がした。
エレンの声だった。自分の名前を呼んでいた。
カールは一瞬、足を止めた。
体が動いた。向かおうとした。確認したかった。状態を確認したかった。声が聞こえたということは、意識が戻ったということだ。制御装置が切れたということだ。装置が切れたなら、エレン自身でいられるはずだ。
腕が少し動いた。
向かおうとする動作だった。
しかしカールは、その動作を止めた。
今は、それ以上踏み込まない。
スーケリーがそこにいる。スーケリーが動いている。エレンのことはスーケリーに任せる。今カールがいる場所は玉座の間だ。やることはここにある。
カールは前を向いた。
皇帝を見た。
皇帝は表情を変えていなかった。しかし目が少し動いた。カールが一瞬止まったことを見ていた。
「聖女のことが気になるか」皇帝は言った。
「気になる」カールは答えた。
「しかし今は後だ」
「後があると思っているのか」
「ある」
皇帝は少しの間、カールを見た。それから言った。
「聖女の制御が切れた。もはや不要だ。捨て置け」
独り言のような声だった。側近に向かって言ったのかもしれなかった。しかし側近はもういなかった。カールに向かって言ったようにも聞こえなかった。
ただ言った。
カールはその言葉を聞いた。
不要だ、と言った。制御が切れたから不要だと言った。エレンという人間に対して、使えなくなったから不要だと言った。
それが皇帝だった。
廃神殿で見た目の奥にあったものが、今分かった気がした。計算だけがある目だった。価値を評価し続ける目だった。使えるかどうかだけを見ている目だった。
「確認した」とカールは言った。
「何を」
「お前がどういう人間かを」
皇帝は答えなかった。
カールは歩いた。
玉座に向かって歩いた。
皇帝はその場に立っていた。動かなかった。護衛はいなかった。魔術師はいなかった。手に武器はなかった。
「終わらせる」カールは告げた。
「終わらせられると思うか」皇帝は笑った。
「思っている」
「魔導核がある」
「エレンの制御が切れた。魔導核も不安定になっているはずだ」
皇帝の目が動いた。
それが答えだった。
広場では、スーケリーがエレンを支えていた。
エレンは立っていた。震えていたが、立っていた。
「何があったか分かるか」スーケリーが聞いた。
エレンは少しの間黙った。記憶を確認しているように見えた。
「分からない」エレンは言った。「断片的には覚えている。しかしつながっていない。気づいたら、空に向かって手を広げていた。体が動いていた。止めようとしたが、止められなかった」
「制御装置があった。頭に埋め込まれていた」
エレンは自分の後頭部に手をやった。突起に触れた。指先で確認した。
「これが」
「カールが最初に確認した。構造を把握した。外科的に外せると言っていた」
「カールが」
「今は城にいる。終わったら来る」
エレンは城の方向を見た。
何も言わなかった。
「立てるか」とスーケリーが聞いた。
「立てる」
「動けるか」
「動ける」
「ならここから離れよう。まだ兵士がいる。安全な場所に移動する」
エレンはスーケリーの手を取った。
歩き始めた。
足がまだ震えていた。しかし動いた。
スーケリーが支えながら歩いた。
広場を離れながら、スーケリーは城の方向を一度見た。
カールが何をしているか、スーケリーには分かっていた。
早く終われ、と思った。




